第17話 ジントニック

文字数 1,451文字

「一種類だけですが、ジントニック用に冷やしたジンがございます。世界で初めてジントニックを生んだと言われるゴードンのロンドン・ドライジンでおつくりしますがよろしいですか」
「そこはもう、おまかせします」

「シャトーのライムは軽く絞らせていただきます。残りは小皿に置きますのでお好みで絞ってお飲みください。その味でよろしければそのままグラスに入れても香りを楽しめるかと思います」



 バースプーンで軽く一回ビルドしたジントニックを女性の前に置き、バーボンソーダを男性の前に置いた。

「あまり混ぜないんですね」
「混ぜすぎると炭酸が飛びますし、氷も溶けますから軽く一回で充分です。それもあってジントニック用のジンは冷やしてあります」
「へぇーそうなんですね」

「二回も三回も回したり、ガチャガチャとビルドするバーテンダーがいたら二度とその店には行かない方がいいです」
 なんか、すごーい。プロがいたプロ。女性が笑った。

「ビルドってなんですか?」男性が興味を示した。
「ステアはご存知ですか?」
「えぇ、混ぜることですよね」
「はい。正確に言えば、お酒を混ぜるのをビルドと言います。炭酸などとですね。ステアはたとえばこれ」ミキシンググラスを手に取る。
「マティーニなどを作るとき、お酒を冷やすためにするのがステアです。ですからいまお出したものがそうですが、ステアしてはいけないのです」
「勉強になるなぁ」
「いえいえ、私たちにとっては基本中の基本ですから」

 この耳で捉えた歌声は切なげだった。そうか、今夜は安斎さんのステージだった。

「あ、この曲なんてタイトルでしたっけ」
 女性の声に、男性客は知っているだろうかと目線を合わせてみたが、彼もまた興味深そうな目を返してきたため、彼女の質問に答えた。

「You'd Be So Nice To Come Home To です。彼女の十八番(おはこ)ですね。お二人にお似合いの曲かと思います。今宵のジャズ・シンガーは安斎みずき。一般にはあまり知られてはいませんが、若いながらも業界屈指のヴォーカリストです」
「へえ、そうなんですね」女性が頷く。きれいだしね、と横目で男性を見る。咳払いがひとつ。

「彼女がこの店のステージが一番好きだと発言して以来、ジャズバーとしての店のランクが上がったほどです。どうぞごゆっくりお過ごしください」

「うわ、楽しみ。歌の内容はご存知ですか?」首をちょっと傾けた女性が尋ねた。知らないことを知らないという。知りたいと質問する。つくづく素敵なカップルだ。
「はい」
「終わったら教えてください」
「かしこまりました」

 ふたりはステージに視線を移した。彼女の邪魔にならないように彼は背筋を伸ばし、彼女は前のめりで歌に聴き入った。


 あなたの待つ家へ帰れたら素敵なのに
 あなたが暖炉のそばにいてくれたらどんなにうれしいでしょう

 そよ風が歌う子守唄を聴きながら
 私が求めるものはひとつ それは あなただけ

 冬の寒さに震える星の下でも
 八月の燃える月の下でも

 帰って行く場所 そして愛する伴侶としてあなたがいてくれたら
 それは最高の幸せでしょう

 《You’d be so nice to come home to》
  Lyrics & Music: Cole Porter 1943
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