第21話 サウザ・シルバー

文字数 1,262文字

 バーテンダーを見ると、お決まりですか? そんな目をして微笑んだ。

「あの──棚橋さんを呼んでいただけますか」
 声が耳に入ったのか、老バーテンダーがすぐに動いた。

「お決まりでしょうか」
 ピシリとしたタキシードに嫌みにならない程度に糊の利いたワイシャツ。襟元には長年使い込んだ風情の蝶ネクタイ。ホックで留める簡易のものではなく、結ぶものだ。ポケットからのぞくチーフ。その下には小さな名札。

 櫛でオールバックに撫でつけた髪にはうっすらと白いものが混じり、細く整えた口髭が何ともいえず老練な雰囲気を(かも)し出している。

 客商売に髭は珍しい。けれど、彼ほど似合う日本人を見たことがない。これを剃れと言う人がいたとしたら、そのセンスのない顔を見てみたいほどだ。

 この店を訪ねるのはずいぶんと久しぶりだったが、かつて彼と個人的な話をしたことはない。いつも静かに、必要とされないときには一歩引き、必要なときに必要なことを提供するバーテンダーだった。

 名前だって名乗りあってはいない。胸の小さな名札に掘られた、「棚橋 チーフバーテンダー」を見て覚えただけだ。

「ブランコのテキーラは冷えてますか?」
「あいにくと冷えたものはございません」申し訳なさそうに眉を下げた。「二年前まではサウザ・シルバーを冷やしてあったのですが」
 昨日や一昨日ならいざ知らず、二年前とは不思議なことを口にするものだ。



「じゃあ、マティーニをひとつ。それと、隣にテキーラのオンザロックを氷多めで。それからライムを半分に切ったものと塩をお願いします」

「はい、かしこまりました。岩塩がありますのですりおろしましょう」
「あ、それはいいですね。僕も一杯だけテキーラをもらえますか。マティーニはその後でいいです」

 隣でふっと笑った息が耳を震わす。

「かしこまりました。サングリアはお付けしますか?」

 即座にサングリアと口にする辺りは、やはり手慣れたバーテンダーだ。サングリアと言っても、赤ワインにフルーツを入れたものではない。トマトジュースに唐辛子や塩などを加えものだ。

 口に含んだ田舎くさいテキーラとこいつを口中でクツクツとシェイクするとえもいわれぬ芳醇な味になる。

「いえ、同じくライムと塩でいいです。メキシコに?」
 僕の問いに、ずいぶん昔ですがと苦笑した。このやりとりだけで今夜は上等な夜だった。

「どうぞ」隣の席にテキーラとライムと塩を置きながら、彼は軽く頭を下げた。

「早いものです」同じく僕の前にテキーラとライムと塩を置きながら眉を寄せた。
「今日は命日でしたね」
「ご存じでしたか⁉」僕は思わず、カウンターに身を乗り出した。知っていたのか。

「ええ、私も密かにあの方のファンでしたから。あの人の歌はよかった。魂と……なんと言いますかね、人の心の根幹をグラグラと揺さぶりました。
 お久しぶりですね、藤崎さん」
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