第2話 こんなジタンの空箱

文字数 1,523文字

 タキシードに蝶ネクタイ、胸からのぞくポケットチーフ。櫛目(くしめ)も鮮やかに後ろに撫でつけた髪には白いものが混ざり、業界では(おきて)破りとも言える髭は細く整えられている。

 体は細身で、見目(みめ)はダンディである。元来の正義感と気の強さから、若い頃の武勇伝には事欠かない。

 骨折らしい骨折といえば一対十という無謀な乱闘で砕けた鼻という男ながらも、歳を経たその顔は、そんな過去など微塵も見せることなく、どこまでも穏やかである。

 女──確かに男にも女にモテたが、体のどこを切り取ってもフェミニストである彼は、女遊びという言葉とは無縁である。一球入魂の直球勝負。それが彼の信条であり、若いころは全力投球の果てくらった場外ホーマーに、人知れず肩を震わせた夜もある。

 好む煙草は「ジタン・カポラル」。狙ったわけでもないだろうが、ルパン三世と同じである。今は置いてあるタバコ屋も珍しくはないが、その昔は、電車に乗って銀座のソニービルまで買いに行っていたほどだった。彼は見かけによらず一途だった。



 ちなみにソニービルは2017年(平成29年)3月31日で営業を終了している。

 スペインのジプシー女を意味するジタンのパッケージには女性のシルエットが描かれていて、ゴロワーズと並ぶフランスを代表する銘柄であることは言うまでもない。



 その空き箱を捨てるとき、いったい何十年歌えば気がすむのだと呆れるぐらい、飽きもせずに口ずさむ歌がある。

 いつか忘れていった こんなジタンの空箱 ひねり捨てるだけで あきらめきれるひと

 作詞:ちあき哲也/作曲:筒美京平/編曲:船山基紀
 歌/庄野真代 『飛んでイスタンブール』

「いつか忘れていった」でゴミ箱に足を向け、「ひねり捨てるだけで」のところで握り潰すのが常であり、握りの塩梅(あんばい)が悪くて眉をしかめてじっと手を見ることも珍しくはない。パッケージの角が当たったところがポチッとへこんだのだ。彼はちょっぴり懲りない男でもあった。

 耳の早い一部のバーテンダーにしか知られていなかったアメリカ生まれのカクテルをメジャーなものにしたのも彼である。正統を自負するオーセンティックなバーでは敬遠され、広まる様子がなかったからだ。

 シェイクするショートドリンクとして紹介されていたそれを、氷を入れたロックグラスで提供したところ、それはたちまち同業仲間を伝い、町場のショットバーや居酒屋、カラオケボックスに伝播(でんぱ)し、若者の支持を得ていった。

 ピーチリキュールをオレンジジュースで割ったそのカクテルの名は『ファジーネーブル』。
 彼がまだ三十代に突入して間もない頃の話である。

 さらにもうひとつ。業界ではゴキブリにも様々な呼び方があるが、その中でもかなりメジャーなひとつである「太郎」を名付けたのも彼である。まだ二十歳そこそこの頃の話だ。

 彼はその広まり方を見て後年残念に思ったことがある。太郎はあまりに安易だった。自分の名前をひとつ取って「慎之介」にしておけばよかったと。

 彼は求められれば最高のものを提供することを惜しまない。けれど何も求められなければ、静かに過ごさせることを心がけている。

 酒を求め、ジャズを求め、彼との会話を求めて、今宵もさまざまな客が訪れる。

 彼の名前は棚橋慎二朗。この道40数年のベテランバーテンダーであり、統計的には三割ともいわれる右曲がりである。
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