第10話 初恋の味

文字数 1,202文字

 居住まいを正した奥さんは「ああ、確かにこんな色でした」と頬を緩めた。
 グラスの縁で乾杯した二人は、感慨深げにそれを眺め、ゆっくりと口をつけた。

「ん? カルピスが入っていますか」ご主人がいち早く気づいたようだ。
「そうです」私は微笑んだ。
「あぁー初恋の味ですね」

「はい。初恋の味カルピスです。出自はどうなんでしょう、カルピス発売の頃にとられた販売戦略のひとつだったのかもしれません。だとするなら、私たちが生まれるうんと前の話ですね。
 カクテルブックに載っているようなものではないですが、同じような年代の人なら知っている可能性のあるカクテルでしょう。若草フィズなどというものもありました」



 同じような年代という言葉に反応したのだろうか、奥さんは口に手を当てて、ふふっと笑った。

「若いバーテンダーでは知らないのも無理はありません。たとえば、地元で長くやっていらしゃる年配のマスターのいるスナックなどのほうがわかるかもしれませんね」
「あぁ、なるほど」ご主人が頷く。

「今回はややドライなビーフィータージンを使いました」ジンのボトルを手に取る。
「ビーフィーターというのは、ロンドン塔を守る近衛兵のことです。奥様はジンフィズをご存じですね」
「はい」
「乱暴に言えば、ジンフィズにカルピスをくわえたものが初恋フィズです」
「まぁ、そうなんですか」驚いた目をした。



「ご主人にごちそうしてもらったのですか」
「いえ……」奥さんは、ちょっと言葉に詰まった。

「家内の昔つきあっていた人です」ご主人が口を開く。
「その男は、私の友人でしてね。しかし、若くしてガンで亡くなったんです。まだ23歳でした」
「そうでしたか……若い人のガンは進行が早いと言いますからね。それは、お気の毒でございました」

 二人が口を開くのならとことん聞いてやろう。話さないならここで静かに過ごさせてあげよう。私はそう思った。

「ラグビーをやっていた、がたいのいい気の優しい男でした……今日はね、そいつの65回目の誕生日なんですよ。だから、ここに来ました。棚橋さん、とお呼びしていいですか」

「ええ、もちろんです。違う名前で呼ばれても絶対に振り向かないと思います」二人同時にクシュッと表情を崩した。

「よかったな。棚橋さんを訪ねてきて大正解だった」
 顔を寄せるご主人の言葉を噛みしめるかのように、奥さんはゆっくりと頷いた。

「生きていればおじいちゃんなのに、そいつは若いままなんです。それがうらやましくもあり、悲しくもあるんです」ご主人が少ししかめた目を向けてきた。

 今夜はじっくり聞くこととしよう。三人の思い出話を。

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