第24話 歌声

文字数 890文字

「もう一度、あの人の歌が聴きたいものですね。“ニューヨークのため息”と称されたヘレン・メリルばりのハスキーヴォイスが」棚橋さんは再びステージを見た。

「大げさな身振り手振りを加えるでも、変に情感を込めるでもなく、どちらかと言えば淡々と、パフォーマンスを封じ込めるように後ろ手に体を揺らしたり」棚橋さんは目でなぞるように語る。

「ですね。あの後ろ手は、歌の最後に隠し持っている白いハトでも飛ばすんじゃないかと思ったことがあります」つけ加えた僕の言葉に棚橋さんがクッと俯いて笑った。

「そうだ。あの方は小柄なのにマイクをちょっと高めにセットしました。そしてマイクに口づけを求めるように歌いましたね。とてもキュートでした。
 時々視点を失ったような目を細くしたり閉じたり、ふっと微笑んだりするぐらいで、大げさなことはしなかった。それでも人の心を鷲掴(わしづか)みにして揺さぶりました」

「夢でもいいから聴きたいです。あんなにも近くにいた人が、もう手の届かないところにいるなんて。失って初めて気づくなんて、僕は愚かしい男です」

 棚橋さんは静かに頷いた。

 隣を見た。減らないテキーラ、(かじ)られることのないライム。そこにいたはずのひとが消え失せた空虚な透明。



 その席にそっと手を乗せた。温もりのないレザーチェアーの感触だけが、左の手のひらを押し返してきた。わかっている。彼女がいなくなったことは、とっくの昔に身体と心が知っている。

「みずき、飲みなよ。ほら、な、棚橋さんが入れてくれたよ。飲みなよ」
 声はもう、返ってはこなかった。
 
 You'd be so nice to come home to,
 あなたの待つ家へ帰れたら素敵なのに
 
 突然流れてきた歌声に、弾かれるように顔を上げた。

 You'd be so nice by the fire,
 あなたが暖炉のそばにいてくれたらどんなにうれしいでしょう

 声が、歌が確かに聴こえる。
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