第15話 ギムレットには早すぎる

文字数 1,284文字

「なんだよ、この店」若い男は聞こえないほどの舌打ちをして席を立った。
「帰るぞ」オロオロとする女性は言われるまま腰を上げ名残惜しそうにグラスを見た。それはそうだ、モスコミュールはまだ二三口しか飲んでいないのだ。声は出さずに申し訳なさそうに頭だけ下げた女性。

 いいひと見つけなさいよ。彼女の後ろ姿に思い切り声を掛けたいぐらいだった。

「清水さん、使い方が違いましたねぇ」藤崎さんが微笑む。
 え?
「ギムレットには早すぎる」
 そうなの?

 お酒やカクテルに造詣(ぞうけい)の深い人だとは思っていたが、その知識に驚くばかりだ。

 ギムレットは、レイモンド・チャンドラーの小説『The Long Goodbye=長いお別れ』に登場し、「ギムレットには早すぎる」という名セリフで一躍有名になったカクテルだ。



 ハードボイルド小説の冒頭、探偵フィリップ・マーロウは偶然助けた男テリー・レノックスとバーでギムレットを飲み合う仲になる。

 マーロウは飲む酒にはこだわらない男だったが、レノックスはギムレットが好きだった。「本当のギムレットはジンとローズのライム・ジュースを半分ずつ、他には何も入れないんだ」。二人は幾度となくバーでギムレットを飲み交わす。

 そんなある日、レノックスがマーロウに助けを求める。彼の妻が何者かに殺され、レノックスはメキシコに逃れようとしている。マーロウは彼の無罪を信じ、逃走の手助けをするのだが事件が明るみに出た。警察の手がマーロウに及ぶ。しかしマーロウは権力に屈することなく、友人を守るために反抗した結果、取調室であらゆる災難に遭うことになる。

 そんなとき、レノックスがメキシコで自殺したという連絡が入る。そして釈放されたマーロウの元へ「ギムレットを飲んだら僕のことはすべて忘れてくれ」としたためられた手紙が届く。



「途中は端折りますけど長い時間が経過します。実はレノックスは生きてたんですね。整形手術で別人に成りすましていたのです。
 エンディングが近づき、別人となったレノックスがマーロウを訪ねてくるんです。気づいているマーロウは、君がレノックスだということは判っているというニュアンスを込めた語りかけをするんです。
 最後の会話の場はやはりいつものバーです。主人公マーロウがギムレットを注文するんです。名残惜しさを押し殺しつつね。そこで出たレノックスのセリフが『ギムレットには早すぎる』です。それを飲んで、さよならまた明日にはまだ早いよと。ちょっと素敵な男の友情です。こんなにすっ飛ばして話したらあの小説の良さは伝わりませんが」

「あぁ、お前にはまだギムレットは早すぎる、じゃないんだ」
「そうです。まだお前とは別れたくないという意味がこもるセリフです」

「おぉ、俺たちみたいだ」
 清水さんはすっかり、藤崎さんを気に入ってしまったようだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み