第14話 フィリップ・マーロウ

文字数 1,695文字

 奥に座るみずきさんのいい人がカウンターに突っ伏すように目を(すが)めている。

「あぁ、その色は──」頷きながら口を開いた。
「ご所望はフレッシュライムのギムレットだったのね」物静かな彼にしては珍しく張った声だった。

「淡いグリーンをまとったギムレットはご存知ない? まあそこは知識の問題。知っていたとすれば好みの違いだから誰が悪いって話でもない。しかし、間違いと言われた日には、カクテル・ブックの古典中の古典サヴォイ・カクテルブックも形無しだね。レノックスもかな」



 サヴォイ・カクテルブックばかりか、レイモンド・チャンドラーの小説が出るとは驚きだ。レノックスが登場するのはフィリップ・マーロウシリーズの代表作。その知識の豊富さに舌を巻くばかりだ。

 若い男は眉間を険しくして、何を言ってるんだと睨みつけんばかりの表情だ。離れずにいたバーテンダーは、ナイス、と一言残して違う客の元へ向かった。

 ニコラシカさんがグラスを片手に安斎さんのいい人の横にいそいそとずれた。気に入ったようだ。

「棚さん」呼びかけは安斎さんのいい人だ。親しいわけでもないのに初めて名前を呼ばれてハッとした。それも旧知の友人みたいに。どうやら本気で助っ人に入ってくる気らしい。

「その坊やの顔は、どうやら知らなさそうだね。若い人はそれがギムレットだと思っているみたいだから許しましょうよ。ほら、清水さんもカッカしないで」

 すばやく名刺交換でもすませたのか、ニコラシカさんは清水という名前だったことが判明した。複数で来店した客なら互いに名前を呼び合うから覚えるが、一人客は自ら名乗ったり名刺でも出されない限り名前を尋ねることなどないのが常識だ。

 途端に、ニコラシカの清水さんが怒っているような仕草をしたのがご愛敬だった。

「カクテルの道は深い。それに味なんて好きずきだから大目に見てあげましょうよ。この間みたいに暴れて警察沙汰になるのイヤですからね」ニコラシカさんの肩をなだめるように叩く。

「正当防衛が認められたとはいえ、何時間警察にいたと思ってるんですか清水さん。空手の師範が素人相手に暴れちゃダメでしょ。道場の若いものに示しがつかない。棚さんも抑えてください」軽くウィンクが飛んできた。
「僕たち大人なんだし」

 それにしてもアドリブが過ぎる。ニコラシカさんは黒帯持ちどころか、運動嫌いのメタボなのに。しかし、そういわれてみれば、ふくよかな体が筋肉に包まれているようにも見えてくる。私はふたりに向けて目だけで礼を述べた。

「そうかぁ……」清水さんと呼ばれたニコラシカさんはパキパキと小気味よく指を鳴らし、首をコキリコキリと左右に鳴らす。その様子を若い男はすこし身を引いて見ている。

「そうだったな──藤崎さんの言うとおりだろうね。慎さん、年甲斐もなく気が立っちまったよ」安斎さんのいい人の名前も出てしまった。

「はい」芝居の仲間入りをしてみた。「大人ですから」腹立ち紛れにチクリと言ってみる。

 藤崎さんが右手を広げた。
「余のつらつら思うところにあやまちなくば、酒を飲むのには5つの理由がある」
 さすがである。オクスフォード大学、クライスト・チャーチ学寮長をつとめたヘンリー・オールドリッチの言葉だ。サヴォイ・カクテルブックの冒頭を飾っている。



「良酒あらば飲むべし」親指をたたむ。
「友来たらば飲むべし」人差し指を折る。
「のど、渇きたらば飲むべし もしくは、渇くおそれあらば飲むべし もしくは、いかなる理由ありても飲むべし」グーになった右手を下ろした。

「そこに僕がひとつ付け加えよう」カウンターに身を乗り出す。「それを創り出した人、目の前で作る人に感謝をしながら飲むべし」

「藤崎さんいいねそれ。では負けじとひとつ。ギムレットには早すぎる」ニコラシカの清水さんがしたり顔で頷いた。
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