第11話 マティーニ

文字数 1,336文字

 カウンターに腰を下ろし、ジャケットの袖を指先で上げた男は腕時計に目を落とした。それからすこしの間、宙を見つめていた。

「マティーニを下さい」

 年のころは30前後だろうか。背伸びをしたがる子供のような風貌ではない。物腰が柔らかく、ちょっとはにかむような笑顔を浮かべる人だった。連れもいない。だとするなら本当にマティーニが飲みたいと判断すべきなのだろう。



 マティーニは万人受けするような味でもなければ弱いカクテルでもない。なにしろ、ジンのほかに加えるものはドライ・ベルモットと呼ばれるハーブやスパイスなどを加えた白ワインだけなのだから。

『007』のジェームズボンドがウォッカベースで頼むことでも名が知られ、『スミノフ・ウォッカ』が使われる。通称、『ボンド・マティーニ』

「Vodka matini, shaken not stirred」
「ウォッカマティーニを。ステアせずにシェイクで」

 ジンが好きでなければ頼むべきものではない。それを知らずに「カクテルの王様」と称される名前だけで頼んでくる客がいる。それが一番怖い。飲む人を選ぶカクテルだからだ。失礼ながら試してみることにした。

「オリーブは沈めてよろしいですか」
 男は驚いたようにこちらを見た。「すごくいい質問ですね。初めてです」

「そうですか?」
「ええ、お願いしたいと思っていたんです。オリーブを別添えで三粒。レモンピールはいりませんと」

 それだけで私の背筋は伸びるようだった。なかなかに手ごわい、慣れたお客様のようだ。

「ジンやベルモットの種類、その分量にお好みはございますか」
「いえ、それは信頼してお任せします。レストランのシェフにレシピを伝えるほど傲慢な男ではありませんので」



「かしこまりました。では、タンカレー・ジンとノイリー・プラットを使わせていただきます。この店は初めてですか」
「いえ、何回か。いつも連れを頼んでステージ前のボックス席に座りますので、今日はぜひここに座りたいと思っていたんです」

 あ……あの人かもしれない。

「いつもマティーニのオンザロックを頼まれるお客様ですか」
「ああ、覚えておいでで。馬鹿のひとつ覚えですみません。一杯目はたいていそうなんですよ」

「いつもは別添えをされませんよね」
「したいんですけどバーテンダーさんに直接ではないので面倒になってしまって。ウェイターさんに注いでもらうのもどうかと思って、オンザロックにしています」
「ああ確かに、ウエイターにそれを伝えるのはちょっと面倒かもしれませんね」

 ステージが始まった。今宵は安斎みずきだ。マティーニ一杯の後は、後でバーボンソーダでもいただきます、とチェイサーを頼んだ。飲みなれている。

 一回目のステージ、最後の一曲が始まるとやおら立ち上がりステージに向かった。なんと小洒落(こじゃれ)た方だろう。後ろ手にしたものを見て、ほぉ、と思わず感嘆の息が漏れた。

 どうぞ素敵な夜と素敵な未来を。
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