第8話 師弟関係

文字数 1,232文字

 直伝といっても手取り足取り教えてもらえるわけではない。盗むところから始まるのが修行だからだ。それでも大事なところは的確に教示してくれる人だった。

 掃除を終えた開店前、師匠に言いつけられたのは水だけを入れたシェイカーを振ることだった。氷の音なんて追及してたら妙な癖がつく。そうなったらアウトだ。そこらにいるろくでもないバーテンダーと同じだ。水の回り具合に全神経を集中して、その音と感触を耳と腕で覚えこめ。

 当時、その店で使われていたシェイカーは現在主流になった500mlのものよりは小ぶりだった。氷の音のしないシェイカーは間抜けそのものだったけれど、言葉に従って一心不乱に振り続けた。



 先輩方が鼻で笑った。冷たくしてねぇ、ぬるいのヤァよぉ。そう言いながら通り過ぎた先輩もいた。その後、数人の嘲笑が聞こえてきたのは今でも忘れない。

 それぞれが様々な経歴を持つプロのバーテンダーであり、私にとっては師匠でも彼らにとっては持ち場の責任者以上のものではない。チーフバーテンダーとはいえ弟子ではなかったのだから。

 あの人は私という飲み込みの悪い弟子を持ったがゆえに、立場を悪くしたのではないかと、今でも思うことがある。

 それでも、育ててくれようとしている師匠の言葉を信じて振り続けた。いつかお前らを越えてやると屈辱に耐えて。

 気にするな、それでいい。叩かれた肩に振り向くと、孤高のバーテンダーと師匠が評した新藤先輩だった。仲間との雑談には一切加わらず、仕事のこと以外で口を開くことのないクールなひとだった。

『ありがとうございます』シェイクの手を止めた私の言葉に背中で片手を上げた。新藤さんは師匠の教えを正しいと肯定してくれた。それが無性にうれしかった。その新藤さんは現役を退いてしまったが、今でも親交は絶えていない。

『言いつけを馬鹿みたいに守って飽きることなく繰り返したよな』新藤さんが回顧した日があった。

『もしも回りがお前にやさしくしようものなら、俺が一番辛く当たったかもしれない。なぜかって? お前が恐ろしかったからさ。影踏みを命じられたら日が暮れても影を探して走り回るような男だったからな。そんな一直線の馬鹿が同じ店でプロを目指したら、同業者として怖いに決まってるだろ』

 師匠と敬愛する人は、おそらく40歳代で世を去った。お互いすでに違う店で働いていたためずいぶん後年に聞くことになった。

 葬儀はもちろん墓参りさえできていない。どこに眠っているのかすら知らないありさまだ。出身地や住まいはおろか、正確な年齢さえ知らなかったのだから無理もない。新藤さんに訊いても、あの人は私生活が謎だったからなぁ、と首を傾げただけだった。

 不詳の弟子は年齢もキャリアも師匠をはるかに越えたのに、思い出すたび右も左もわからなかった小僧のころに戻る。
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