第26話 バードランドへようこそ

文字数 1,051文字

「身を切られるような痛みもある──顎まで埋まり、このまま死ぬのかと思う苦しみだってある」ふぅっと息を吐き、棚橋さんは天井を仰ぎ見た。

 カウンターのグラスが、溶けた氷につま()かれてかすかに音を鳴らした。

「ひとはときとして臆病になります。現実を知ることを拒みます。けれど力を振り絞って、今に戻って来ることです藤崎さん。
 時の流れは誰にも止められません。だから、時間の針を今に合わせて、今できることをすることです。失われたものは帰ってはきません。けれど、覚えていれば残り続けます。記憶のひだに埋もれぬように心に(とど)めておけばよいのです。眠りの森に静かに埋められた思い出は、紐解(ひもと)くたびに息を吹き返し、あらたな呼吸を始めます。やさしくあたたかくあなたを包むはずです」



 はい。かろうじで声を返した。妖精が頬を撫でる。それからぺちぺちと叩く。僕が手首を捻って指を出すと、噛まれたような感触。

「やがて何もかもを時が希釈してくれます。時は残酷だけれど、やさしい。
 みずきさんも、それを望んでいるはずです。ひとりで抱え込むことはないのです。こんな男との会話で気が紛れるのなら、私はいつでもここにいます」

 肩で妖精が棚橋さんに向けて深々と頭を下げた。それから、僕の頬をツンツンとつつき、そして消えた。

「棚橋さん……いま」グッと俯いた。消えてしまいました。最後の言葉は声にはならなかった。

「構わないんですよ。私の前でなら遠慮はいりません。時としてひとは弱い生き物だけれど、涙は弱さじゃない。明日へとボートを進ませる暖かで力強い流れです」

 こんな老いぼれバーテンダーを覚えていてくれて感謝します。私も生涯、稀代(きだい)のヴォーカリストでありながらも、ひどくかわいらしかったみずきさんのことは忘れません。もちろん、あなたのことも。

「ありがとうございます」
 テキーラ・オン・ザロックが滲んで、ダウンライトを弾いた。

「お友達が来ましたよ、藤崎さん」棚橋さんの声に顔を上げ振り向いた。
「藤崎さん! 元気でしたか……」眉と口元を、今にも泣きだしそうに歪めた清水さんが、両手を伸ばしてよろよろと歩み寄ってきた。
 
 みなさまバードランドへようこそ。

 肩口で両手を広げたチーフバーテンダー棚橋慎二朗の息のようなつぶやきが、耳朶(じだ)をやさしく撫でて過ぎた。


 ─fin─
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