第22話 悔やみの酒

文字数 808文字

「あぁ、僕を覚えていてくれたんですね」
「ええ、もちろんです。一度助けていただいたこともある。ギムレットには早すぎる」
「あー、ありましたねそんなこと」苦笑気味にうつむく顔を覗き込むようにした棚橋さんの口元の髭が、小気味よいほどに上がった。

「清水さんはお見えになりますか」
「えぇ、ときどきいらっしゃっては、藤崎さんは元気だろうかと気にしています。あの方もみずきさんのファンでしたからね」

「そうでしたか。今度お見えになったら、なんとか生きているとお伝えください」
「わかりました。私も来ていただいて嬉しい限りです。気になっていましたので」
「でしたら棚橋さん、悔やみの酒で一杯だけおつきあいしていただけませんか」

「飲み過ぎはダメよ」即座に声がする。「以前より酒量が増えてる」僕は左の頬だけで笑ってみせた。

 タキシードのポケットから金色の懐中時計を取り出した棚橋さんは、はい、と口元を引き結んだ。髭と同じくそうとうな掟破りですが、特別な日ですから、と。



 自ら入れたアルマニャックのグラスを目尻の辺りに上げた。
「では遠慮なくいただきます。乾杯」カウンターに置かれたテキーラに軽くグラスを寄せた。

「本当に早いものです。もう二年が過ぎてしまいましたよ棚橋さん。鮮やかだったすべてのものが、手の届かない過去のものになってゆきます」
 吐息のような言葉を吐いてテキーラのグラスを回すと、氷とグラスの触れ合う音がした。

「あの直後でしたね、お亡くなりになったのは。ギムレットの一件」
「そうでしたか。なんか記憶が曖昧になってしまって」
「無理もありません」棚橋さんは誰もいないステージに顔を向けた。そして、そこで歌っている人を見るようにきゅっと眼を細めた。横顔がボトル棚の光りに照らされて、細いシルエットになった。
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