第41話

文字数 2,022文字

 エレベーターの二階のボタンを迷わず押した。ガクンと振動した後に一階で扉は開かずにエレベーターが上昇する。優しい看護婦さんはピクリとも動かなかったが、よく見ると目から溢れる涙が血塗れのマスクを濡らしていた。
 苦しいのかな?
 ぼくは早めに羽良野先生を探すことにした。
 扉が開くと動きにくい体を引きずるようにして、廊下を進む。
 真っ暗で蒸し暑い廊下は点滅しだした明かりだった。濁り出した目では見えにくいけど、廊下で複数の患者やクワが床に散らばっていた。
 ぼくは静かに窓の外を見つめた。
 か細い明かりで厚い雲が病院全体を覆っていた。
「羽良野先生? どこ? ここで何が起きたの?」
 ぼくの声はいつの間にか小声になり、聞き取りにくくなっていた。硬くなりだして動かない足を両手で揉んでいると、奥の病室から羽良野先生が歩いてきた。
 片手に持った鉈のような形状の刃物は血だらけだった。
 その顔は真っ青だけど、学校での優しさがある顔だった。
「村の人たちは一人だけど説得しました。歩君? 動きが変よ。まだ飲んでないの?」
 羽良野先生が渡した白いスープを思い出した。
 慌ててズボンのポケットをまさぐり、瓶を取出し蓋を開けた。
 匂いは、なんだか豆乳みたいにあまりしない。
 ぼくは味は知りたくもないので一気に飲むことにした。
 喉を固い液体が通る感触がした。
「うげっ!」
 ぼくは吐き出しそうな喉をすぐに叱咤して飲み込んだ。
 味はしない。
「我慢して飲んで。村の人たちはかなり怖い人たちだから、早めに一階へ行きましょう。歩君のご両親が危ないわ」
 ぼくはハッとして後ろを振り向くと、優しい看護婦さんが扉の開いたエレベーター内で座ったままだった。
 そうだ!
 この白いスープはまだ残っているんだ。
 だから、看護婦さんにも飲ましてみよう。
 ぼくは急いで看護婦さんの元へ走ると、自然に体に力が戻り。普通に走れた。視界も広がり、生き返ったかのように体が元に戻った。
 それと同時にお腹がギュウと鳴って、物凄い空腹感を覚えた。
 我慢してエレベーター内の看護婦さんのマスクを外していると、羽良野先生もエレベーターに乗ってきた。
「その人も……。子供たちの血はまだ残っているのね」
 ぼくは一瞬。解らなかった。子供たちの血?
 この白いスープは子供たちの血?
 涙がでそうだったけれど、ぼくは力強く右足で床を踏んで地団駄して我慢した。
「さあ、看護婦さん。飲んでね。羽良野先生もいるから……もう大丈夫だよ」
 看護婦さんの口に残りの白いスープを少しだけど流し込んだ。
 看護婦さんは、首を少しだけ動かして目を瞬いている。
 少しだからあまり効かないんだ。
 ごめんね。
 羽良野先生は外の様子を見つめていたけど、ゆっくりとエレベーターの一階のボタンを押した。
 赤いランプの明かりで、疲れ切ったように見えるボロボロの服装の羽良野先生は、今までどこにいたの? それと、床の上の患者さんたちは死んでいるの? 酷い話だけれど、村で殺されている子供たちは? そんなことを聞きたかった。けれど、今は一階の父さんと母さんも無事にこの病院から出ることを考えた方がなによりもぼくには大切だった。
 エレベーターがゆっくり開くと、そこは一階。
 しんと静まり返っている。
 ぼくの父さんと母さんも寝ているんだ。
 なんだか不気味だけれど、羽良野先生が率先して角の多い父さんと丸っこい母さんを探してくれる。
 キビキビと歩く羽良野先生は今までよりも先生らしい。
 無言なその行動には、少し迷いがあるかも知れないけれど、今となっては心強い味方だと思うんだ。
 そう、ぼくにはわかるんだ。
 羽良野先生は根はいい人だと。
 この事件はわからないことばかりで、味方になってくれる人がいるけど、紛れもない現実と空想の入れ替わりのような、悪夢のような事件だ。
 カタンッ……。とロビーの奥から何かが倒れた小さな音が聞こえた。
 誰か起き出した人がいるんだろう。
 怪物の羽良野先生と一緒だとまずいけれど、この際仕方がないんじゃないかな。
 説明するのは難しいから放っておいてほしいんだ。気にせずに父さんと母さんを探していよう。
 空調が壊れているような暑さの病院の総合受付には誰もいない。けど、ガラス窓を挟んだ奥には明かりのついたナースステーションがある。ぼくは汗を掻いて、その隣には色々な診察室が並んでいるのを見回した。おかしな病院だけど、やっぱり病院だ。大きい薬局は病院の外にあるみたいだね。
 羽良野先生は教師のようにぼくの前に立ち、キビキビと薄暗いロビーの広い待合室を探してくれている。
 ぼくも父さんと母さんを探していたけど、空っぽの椅子が並んでいた。
 誰もいない空間だった。
「羽良野先生! 父さんと母さんは!」
 ぼくは涙を流していつの間にか叫んでいた。
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登場人物紹介

石井 歩。


周囲からは賢い子と言われているが、空想好きな小学生。

石井 歩のおじいちゃん。 ずる賢いようでいつも歩と亜由美を見守っている。

羽良野(はらの)先生。 石井 歩の通う学校の担任。石井 歩を色々と気遣う反面……。

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