美術講師 原田未耶 7

文字数 2,076文字

幸人が玄関先でぼさっと突っ立ていると未耶が「ちょっと待っていてね」と言った。

テーブルの上にカップ麺があった。ポテチの袋が空いている。ビールの缶も一本。
未耶は慌ててそれを片付けている。
幸人は見ない振りをしていた。

「御免。散らかっているけれど、ゴホッゴホッ・・・マスク、マスクをしてくれる。マスク無い?
あるから、これを使って。窓を開けるね。換気する」
未耶は窓を開けた。
途端に街路の音が入って来る。車の音や人々の話声。暮れない夕方の街のざわめき。
幸人は渡されたマスクを付ける。

「ところで何? 話って」
未耶が言った。
「って言うか、何で林さんは私の家を知っているの?」

幸人は正直に「あの、一緒に帰った日、見ていたらこの部屋の電気が点いたから」と言った。
未耶が呆れた顔をした。そして何かを言おうとする前に幸人は口を開いた
「つーか、原田先生、何で酒飲んでんですか? 風邪薬飲んだら、アルコールは絶対禁止でしょう?」
「風邪薬飲んでいない」
「えっ? 風邪なのに?」
「うん。ビールが飲みたかったから。ビール優先。アルコール消毒」
「オヤジか! 信じられない。だって、熱があるんでしょう?」
「ああ、どうかな? ちょっと熱いけれど・・・体温計無いし。でも、昨日よりはマシ。昨日は死んでた。流石に風邪薬を飲んだよ。それよりも大切な話って何?」

幸人は流し台に置かれたカップ麺やポテチの袋に目をやる。視線を未耶に戻すと言った。
「・・・おとといの夜、駅の東口であの、先生の元カレがぽつんって立っていて、俺が帰る時に。先生が来るのを待っていたみたいです。それで俺と目が合って、そうしたらあの人ちょっと頭を下げてくれて・・・」
「俺はそのまま帰ろうとしたけれど、何か、あの人が可哀想になってしまって、原田先生は自転車通勤だからこの駅は使っていませんって教えてやったんです。そうしたら「元気でいてくれ」って伝えてくれって・・・いや、俺は伝言なんか嫌だって言ったけれど、あの人、勝手に後ろからそう言ったから、嫌でも耳に入ってしまって・・・・」
幸人はぼそぼそと言った。

未耶は下を向いた。
「うん。・・・・今朝、友達からラインが届いた。『早苗があんたの元カレと婚約をしたらしいよ』って」
「えっ?」
「婚約したらしい。結婚するんだって・・・。だったら、何であんな所で待ち伏せしたのか・・・意味が分からない。あの時はもう別れたって言っていたのに・・・」

「何も、今更、わざわざそんな所で待っていて、『元気でいてくれ』なんて・・・それもこんなどこの馬の骨とも分からない高校生に伝言するなんて・・・」

馬の骨・・・。

幸人は何て返したらいいか分からなかった。それで「あっ、これ、お見舞いです。下のコンビニで買って来たんですけれど・・・つまらないモノですが、これでも食べて元気を出してください」と話を変えた。

未耶は「有難う」と言った。
そしてがさがさと袋を開けると「あっ、ポカリだ。嬉しい」と言って「飲んでいい?」と首を傾げた。その「飲んでいい?」が余りにも可愛くて幸人は思わずキュンとしてしまった。
「どうぞどうぞ」と言うと未耶が「コップ」と言ってキッチンを指差すので幸人は慌てて立ち上がった。
コップを持ってくるとそこにトクトクとポカリを注いで、ごくごくと飲む。そうやって何とコップ3杯ものポカリを飲んだ。
幸人はびっくりしてそれを見ていた。
「ふう・・・」と言って窓の外に目をやる。

「原田先生があそこで殴ったのが不味かったんじゃないですか?」
未耶はそう言う幸人を悲しい目で見る。
「あの場所で殴らないで、あの人と一緒に行っていれば、今頃は・・・」
「シャラーップ!!・・・ゲホッ、ゴホゴホ。」
未耶が咳き込んだ。
「だって、ねえ、一度自分を裏切った人間を信じられると思う? あの人、何か月も騙していたんだよ? そんな人を信じられる? よりを戻しても、また裏切られるんじゃないかって思って彼を疑ってしまう。そうなったら私も不幸だけれど、そういう疑いを掛けられる彼だって不幸だよ。そうなれば、もう二人ともボロボロになるまで傷付け合ってしまう。・・・だから別れるしか無いんだよ」
未耶が言った。
幸人は黙った。

「友達がね。教えてくれたの。その友達には早苗と同じ大学へ行っている知り合いがいるらしいよ・・・」
未耶はぼそぼそとそう言った。
そして黙った。
静かに窓の外を眺めたままだ。
沈黙が流れる。

いきなり「きっ」と厳しい顔をして幸人を見た。
「あの子、凄い金持ちなんだって! そりゃあ、金持ちって言うのは知っていたよ。でも、家が大きな不動産会社でマンションもいくつか持っているらしいよ。そんな金持ちだとは思わなかったよ! それで、みんなに言い触らしているらしい! 婚約したって。 ねえ、私の方が浮気相手になっているらしいよ。どゆこと? (あったま)来る! ゲホッ。ゲホゲホ。私のどこが悪かったの? ガサツだから? 貧乏だから? あの子の方が可愛いの? ゴホッ、ゴホッ。悔しい! ゴホッ! オエ!」

未耶は慌ててトイレに駆け込んだ。
幸人は唖然としてそれを見ていた。
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