美術講師 原田未耶 9

文字数 2,620文字

 秋生とどこかへ行く夢。
電車に乗っていた。向かい合って座り、車窓を流れる風景を二人は見ている。
「もうすぐ渓谷に差し掛かる」
秋生が言った。
「綺麗な景色ね。紅葉の頃は素敵でしょうね」
女の声が聞こえた。
あれ? そのセリフ、私が言おうと思っていたのに・・・
そう思って前を見た。
いつの間にか秋生の隣に早苗がいた。


大学の学生課で見付けたバイト。絵画教室の助手。水彩画を教えられる人を募集していた。大学二年の終わりの頃。
「ユリカ絵画教室」
その面接に行った。
50代のその女性はぽっちゃりとしていて優しい顔をしていた。バイトの面談に来たくりくり頭の美大生を一目で気に入った。明るくて元気な女の子。これはちょっとウチの可愛い甥っ子に。そんな事も考えた。
美大生の名前は「原田未耶」。

 勤務日は火、土。土曜は午前中、火曜日は夕方から夜に掛けて。
その火曜日にいつもやってくる生徒さんがいた。
「白書所 早苗」
変わった名前だなと思った。
未耶よりも2つ下。高校3年生。
聞くと高1の時からここに来ているらしい。高校は上流階級のお嬢様で有名な女子高。
「高校3年生なのに、お教室へ来ていても大丈夫なんだね。優秀だね」
と未耶が言うと
「もう、推薦でY女子大が決まっているの」と言った。
上品で明るくておっとりしていて如何にも育ちの良いお嬢様と言う雰囲気だ。だが、人懐こい面も有り、すごく気が付く面も有りで、未耶にも色々とアドバイスをしてくれる。なんせ早苗の方がこの教室では先輩なのだ。未耶はそれを素直に聞いた。
早苗は自分の意見を素直に聞き入れる、この年上のくりくり頭が気に入った。
「白書所ってあまり聞かない苗字だね」と未耶が言うと、
「うんと昔から書記とか記録所みたいなものをやっていて、それが苗字になったらしいよ」と答えた。
「由緒のあるお宅なのね」
「そんな事はないよー。まあ、家は古いけれどね」
早苗は笑って言った。

ある土曜日。
お教室の終了後に見慣れない青年がやって来た。
「あの、ユリカ先生に用があるのですが」
「ユリカ先生は、今準備室の方で片付けをして・・・」
ユリカ先生がドアから顔を出した。
「あ、来た来た。ちょっとこっちに来て」
先生は青年を手招きした。
「御免なさい。ちょっとこちらの片付け、宜しくね。未耶ちゃん」
青年と先生は準備室に入って行った。

暫くして先生はバックを持って部屋から出て来た。
「未耶ちゃん。この子、私の甥っ子なの。
私、暫く土曜日の午後からお友達の教室をお手伝いする事になったの。だから、授業が終わったら、すぐに出なくてはならないの。未耶ちゃん一人では大変だから、バイトを頼んだのよ。
今日はこの子と一緒に片付けをして、片付けの仕方を教えてあげてください。お教室の鍵はこの子に預けてくれればいいから」
と言った。
「サムラ  アキオと言います」
青年は頭を下げた。
「今、○○大学の3年生です」
塩顔で眼鏡を掛けていた。青いシャツと黒の細身のパンツでスマートな感じがする。
「良かったらその後、一緒にご飯でも食べてくれば? お腹が空いたでしょう?」
ユリカ先生はそう言って部屋を出て行った。
その日、未耶はその青年と一緒に教室の片付けをした。青年は穏やかな話し方で未耶と会話をしながら手際よく片付けをした。
片付けが終わる頃には二人はすっかり打ち解けていた。

「お昼、どうする? この後は何か予定があるの?」
未耶は「何もない」と答えた。
「じゃあ、一緒にご飯を食べに行こう。君の好きな物で。何がいい? 実は、伯母さんがお金をくれたんだ。だから軍資金はたっぷりとある」
秋生はにっこりと笑って言った。
未耶は迷わず「焼肉とビール!!」と叫んだ。



「焼肉とビール・・・」
未耶は布団の中で呟いた。
途端にお腹が鳴った。

ん? 何か、出汁のいい匂いがする。
未耶は布団から起き上がった。

窓は閉められてカーテンが引かれていた。
時刻は夜の8時。

未耶は出汁の匂いに誘われて布団からずるずると這い出た。
テーブルの上に鍋があった。未耶は鍋の蓋を取ってみた。それは卵とじのうどんの汁だった。
「ああ・・美味しそう」
未耶は一口汁を飲んでみた。卵がふわふわで優しい味がした。
メモ書きが置いてあった。
「冷蔵庫に茹でたうどんと具があるのでそれを入れて温めてください。
他にもちょっと入れて置きました。お金は元気になってからで結構です。お大事にしてください。ビールは止めておいた方がいいです。鍵はドアポストに入れて置きます。
 PS 早苗という人を知らないけれど、俺は絶対に原田先生の方が可愛いと思います。 林」
そして最後に電話番号が書かれていた。
未耶はそれを読んでふふっと笑った。

台所のシンクは綺麗に掃除されて洗い物もされていた。
冷蔵庫を覗くとゼリーやドリンク剤が入っていた。
それに幾つかのタッパーにおかずが作られて入っていた。
未耶は驚いた。どれも美味しそうな物ばかりである。そして胃に優しそうな感じがする。
「・・・信じられない。女子力高過ぎ。何なの? あの子」

今朝の気分は最悪だった。
幸人の言葉が脳裏に浮かんだ。
「あの時、殴らないでついて行けば・・・」

行けば良かったのかな? ついそんな事を考えてしまう。あんな風に偉そうに悟ったみたいな事を林さんに、(彼はまだ高校生だけれど)言ったけれど、そう思ってしまう自分がいる。そんな自分が情けなくて嫌いだ。
ああ、でも婚約って、なんだかすごくショックだったんだよなあ・・・。

・・・大体、殴っちゃったくせに今更何を言ってんの? 馬鹿じゃん?
婚約しようがしまいがもう私には関係が無いんだから。いつまでもぐずぐずと考えていちゃ駄目だ。
未耶は自分に言った。

早速うどんを温めて食べた。涙が出る程美味しかった。
温かい物を食べてお腹が満たされると、人間ってそれだけで幸せなんだなと思った。
どんな悲しい事があっても、それだけで癒されるのだと。

優しい気持ちで自分を思い遣ってくれた人が作ってくれたのだから猶更美味しくて幸せになるよ・・。悲しさバロメーターがぐんと減った感じがする。・・・有難う。林さん。
未耶は幸人の素朴な笑顔を思い出す。
自分の手を握って走った、あの大きな手を思い出した。
電車の中で自分をガードしていた時の何とも言えない顔も思い出した。
面白い子だなあ・・。と思った。

そうだね。だから、もう忘れよう。きっぱりと忘れなくちゃ。
秋生には秋生の、私には私の道があるのだから。

さようなら。秋生。
未耶はそう呟いた。
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