第8話 発覚と現実

文字数 3,626文字

梨沙が大学から戻り、兄の自宅にいくと、そこにいるはずの瑞季はおらず、玄関の鍵も開いたままの状態に異変を感じ、すぐに兄に連絡を取った。
危険なのは本人が一番分かっているはずなので、一人で出かける可能性は低く、スマホはないものの、財布は置きっぱなしだった。
いなくなってどれくらいの時間が過ぎたかは分からないが、兄が仕事に出かけた後なのは間違いない。
梨沙が到着したのが19時過ぎ。2,3時間の間で何かがあったのだろう。
スマホに連絡してみたが、電源が入っておらず、つながらなかった。
兄に連絡した後、すぐに警察にも連絡し、警官が何人もやってきて状況を聞かれたが、答えられる事は限られていた。
現場に争った形跡はないものの、事前に被害届を出していたのが幸いし、警察はすぐに事件の可能性があると判断し、捜索が開始された。
兄が出勤前に入れたアプリは、電源が切られているため情報が途中で途切れてしまっていたが、封筒に付いた指紋から、容疑者がすぐに浮かんだ。
坂崎柊 24歳。以前にも他の女性へのつきまといで訴えられた前科があり、スマホの電源が切られた先に坂崎の実家があったことで、警察は坂崎の自宅へと赴いた。
しかし、実家には坂崎の姿はなく、一緒に住んでいる両親もその行方を知らなかった。
そこから、捜査が行き詰まる。
坂崎は自称画家だが、実際には絵は売れておらず、無職の状態。しかし、病院を経営している両親のおかげで、生活や画材の購入費などには困っていなかったようだ。
彼女はおろか友達もおらず、1日の大半を、絵を描くことに費やしていたようだ。
実際、坂崎が自室として使っている離れには、多くの画材とキャンバスが置かれていた。
最近描いたのか、イーゼルの上に載せられた絵はオフィーリアの模写で、それは瑞季に送ったあの絵はがきの絵だった。
証拠品としてその絵は押収され、近所の聞き込みが行われたが、瑞季の居場所につながる手がかりはなく、その日は何も発見できなかった。
しかし、次の日になって、両親名義の不動産がいくつかあることが判明し、それらの物件の捜索が行われた。
兄は被害者の関係者という立場と、部署の違いで捜索には加われなかったが、見たことがないほど動揺し、何度もどこかへ電話をかけていた。多分、同僚の刑事に状況を聞いていたのだと思う。
坂崎の居場所が発見されたのは、その日の夕方。街の中心部から離れた山の中の別荘地で確保された。
その別荘には格納用の地下室があり、そこで捜査員が発見した時には、瑞季は意識も朦朧とした状態で、怪我などは見当たらないが、かなり衰弱した状態だった。
また、発見された時の状態は異常な光景で、坂崎は一心不乱に筆を握り、絵を描いていた。捜査員が部屋に入っても気づく様子もなかったという。瑞季さんは池を模した水の中に浸かった状態で、救出しようと捜査員が池に入ると坂崎は、すごい勢いで抵抗し、捜査員2人が怪我をする事態となった。
瑞季はその後、救急車で病院へ運ばれたが、意識がはっきりした後も混乱状態が続いている。


「オフィーリアを見たんだ。川でオフィーリアを」
事情聴取を始めて第一声がそれだった。
「川でとは?」
「あの晩、女の子が川に流されていて・・・僕はそれを抱きかかえて岸へ運んだ。彼女は生きているのかな。救急車を呼んで、待っている最中、彼女がオフィーリアの表情とそっくりだって思って。でも僕のオフィーリアではなかった。」
坂崎の言っている彼女とは、自殺を試みて助かった高校生の事だと後に判明した。
「それで?」
「僕は僕のオフィーリアを探そうと思って・・・」
全く分からない。聴取を始めたはいいが、坂崎の気持ちが全く理解出来ず、吉岡は頭を抱えた。
「その、オフィーリアは坂崎さんにとって何なのですか?」
「オフィーリアはオフィーリアだよ。ミレーの最高傑作だ。生と死の瞬間を切り取った、最高の作品だよ。でもあれに描かれているのは、ミレーのオフィーリアで僕のオフィーリアではないから。」
「つまり、坂崎さんはオフィーリアを描きたかったのですか?」
「そうだよ。僕だけのオフィーリア。刑事さんは見たことある?僕のオフィーリアも見た?」
逮捕されているのに、得意げで、目はキラキラと輝き、歓喜に満ちている。
「黒瀬さんと出会ったのは、ノワールで間違いないですか?」
「そう。僕のオフィーリアは僕に笑いかけてくれた。僕はあの店に飾られていた花瓶が欲しくて、店に入ったんだ。そしたらオフィーリアは僕に話しかけてきた。あの瞳をみた瞬間に僕の物になったんだ。」
オフィーリア、オフィーリア、オフィーリア。もう耳にたこを通り越して、頭にこびりつきそうだ。
「いつから黒瀬さんを追いかけ始めたんですか?」
「その日からだよ。日にちも覚えてる。9月27日。僕たちの記念日だからね。その日にオフィーリアの家を知ったんだ。後は名前でSNSも見つけて、ずっと見守ってたよ。」
つまり被害者が気づく1ヶ月以上前から、坂崎はつきまとっていたのか・・・。
「絵はがきを送ったのは、何故です?嫌がらせですか?」
「そんなわけ無いよ。嫌がらせなんてしないよ。全く僕に気がつかないし、僕にも準備が必要だったからね。
オフィーリアの為の最高の舞台を作る時間が。でもそれが用意出来て、オフィーリアの準備が必要でしょ?だから手紙を送って、記憶してもらおうと思ったんだ。あの情景を。」
理解出来ない。坂崎にとっては芸術のための行為であろうが、被害者にとっては恐怖だろう。
「黒瀬さんの彼の家も知っていたのですか?」
「もちろん。ちゃんと調べたよ。彼の妹の事もね。」
「何故、宅配業者の恰好を?罪になると分かっていたからでは?」
「オフィーリアは僕の事を知らないみたいだったし、その方が簡単かなって」
どうも話がかみ合っているようで、かみ合わない。
「その制服はどこから手に入れたのですか?」
「ネットだよ。最近は何でも売ってるからね。」
ここまで用意周到に計画しておいて、封筒に指紋を残すような初歩的なミスをしている。
坂崎はこれが犯罪だと、分かっているのか、いないのか・・・・
「坂崎さん、今の状況は分かってますか?」
「うーん、分かってるよ。警察に逮捕されたってことだよね?でも僕は何もしてないよ。僕の物を僕の所に持ってきただけで、刑事さんが誤解してるようだから、ちゃんと話してるでしょ?」
「お前のものじゃない!!」
あまりの言い分に冷静さを忘れ、つい叫んでしまった。弁護士が責任能力なしで無罪を主張するのが目に見える程に、この状況を理解出来ているとは思わなかった。
「坂崎さん、あなたの行った行為は犯罪です。黒瀬さんはあなたの物ではありません。容疑は誘拐、監禁、傷害、ストーカー法違反にあたります。場合によっては更に罪状が増える可能性もあります。」
「なんで?」
「黒瀬さんは、あなたの自己満足のために被害を受けた。分かりますか?」
連れ去られ、監禁され、血まで抜かれて、被害者の受けた心の傷は深いだろう。
それが絵の為、しかも坂崎の理想のために行われた行為だ。
被害者は本当に運が良かっただけだ。彼が警察官だったからこんなにも早く発見できたが、普通は残念ながらこう上手く救出は出来ない。最悪の事態を迎えて尚、解決出来ない事件もある。
「自己満足って。そんなんじゃないよ。」
「では、絵が完成したらどうするつもりだったのですか?オフィーリアが完璧な物になったら、黒瀬さんをどうしようと?」
「大事な物だから、ちゃんとしまっておくつもりだったよ。いつでも会えるように。」
やはり、坂崎にとって被害者は人ではないのだ。子供が大切なおもちゃを大事に仕舞っておくような気持ちなのだろう。
「そういえば、僕のオフィーリアはどこ?返してくれるでしょ?」
「あなたのオフィーリアは存在しません。黒瀬さんには二度と会えないでしょう。」
悪びれもなく、まだ返してもらえる物だと思っている。
ここまできたらもう狂気の沙汰としか言い様がない。
人はこんなにも一つの物に執着し、そのためなら傷つけることもいとわず、自分の世界にだけいきられる物なのか・・・・。
「だめ!だめだ!あれは僕のオフィーリアだ。誰にも取り上げる権利はない。」
手錠をされたまま立ち上がり、その場で暴れ始め、部屋を出て行こうとする。
もうこれ以上何を言っても、坂崎が被害者を物ではないと、ここで気づかせることは出来ない。
証拠も証言も十分にある。後は裁判所に任せよう。
坂崎がいつか自分の罪を理解する日が来るかは分からないが。
暴れ出した坂崎を拘留所に戻し、吉岡は理解出来ないまま、その日の報告書を作成した。
その後、裁判は多くの精神鑑定や尋問を経て、1年後ようやく結審した。


罪状 誘拐、監禁、殺人未遂、傷害、ストーカー規制法違反、器物損壊等
判決 紫苑刑 4日  その後 医療刑務所にて回復まで服役とする。
備考 責任能力は無いが、これまでの経緯を鑑み、治療が必要である。
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