第10話 黒瀬瑞季 END

文字数 2,324文字

発見された後、病院に運ばれた私は、5日も寝続けていた。
血液を抜かれた事や水に長時間浸かって事で衰弱していたことが主な原因らしい。
目が覚めた後も何の感情も湧かず、ただ、病院の天井を眺めていた。
しかし、夜になり明かりがなくなると、半狂乱になって騒ぎ、鎮静剤を打たれる日々を過ごした。
田舎からやってきた両親は泣き崩れ、涼はひたすら謝り続け、梨沙も自分を責め続けていた。
安心しても良い場所だと納得するのに、1ヶ月以上を要し、不安定な状態も続いていた。
しかし、時々こうして普通に戻る時間も徐々に増えてきている。
犯人の名前が、坂崎という名前だった事も後から聞いたが、正直、どうでも良かった。
あの日、私はオフィーリアとして、あの絵の中に閉じ込められた。
坂崎にとってそれが、どんなに大切な物だったとしても、私には理解出来ないし、したくもない。
あの池の中で、生きる希望を失ったことで、坂崎の願いは叶っただろう。
生と死の狭間・・・・
坂崎が思っているような、綺麗な物ではない。
絶望と苦しみと恐怖と憎悪が混じり、その全てを諦めたあの瞬間、私はどんな顔をしていたのだろう。
愛なんて感じるはずもなく、人の醜い感情だけを残したその顔を、坂崎は綺麗だと思ったのだろうか。
水の音が響く度、体は震え、明かりが消える度、あの部屋の中に戻される苦痛を今も感じている。
顔は青白く、目は虚ろな状態で、毎日あの狂気に怯える私をみても、オフィーリアだと言うのだろうか。
あれから、様々なことが変化した。
私が病院にいる間、両親の手によってマンションは引き払われ、荷物は実家へと送られた。
涼も家を引っ越し、今は梨沙と暮らしている。
仕事もいつ復帰出来るか分からない状態のため、今は休職扱いになっているが、この状態が続けば、辞めるしかないだろう。
ノワールの店長や同僚もお見舞いに来てくれたが、事件の話には触れず、いつでも帰ってきてと、優しく声をかけてくれた。
母は近くにアパートを借りて、私の元へ毎日通っている。父も休みの日には必ず顔を出してくれている。
たった一人の加害者が、たった一人の被害者を作り出し、それは多くの人に影響を与え、生活を変化させられてしまう。
まさか自分がニュースのネタになろう事など、想像したこともない。
ニュースを見ても、所詮は人ごとで、
「大変だね、怖いね、かわいそうだね。」
なんて話していたけれど、当事者になった今は、そんな言葉で救われることなどないのだと知った。
その言葉に何の意味も無いことも。
今は自分の気持ちすら上手く扱えず、体も自分の思うようにならない。
これから先の事も、全く見えない。一度、全てに絶望した私が、どうして希望を持つことが出来るだろう。
涼は私が回復するまで待つという。もし、このまま回復しなかったら、どうするのだろう・・・
今回の事件は加害者以外、誰にも罪はない。もし、皆に罪があるというのなら、私は皆を巻き込んだという罪の意識に苛まれないといけない。
いや、もう苛まれている。私のせいで人生に狂いを生じさせてしまったことを申し訳なく思う。
それでも、私は今、生きていて、こうして人に支えられている。
どんなに辛くても、生きている。
それが何の意味があるのかは、分からない。
生きていることで、迷惑をかけていると思う日もある。
皆が私は運が良かったという。彼が警官で、犯人が痕跡を残したおかげで助かったのだと。
本当にそうなのだろうか?運が良ければ、そもそもこんな事件に巻き込まれたりはしない。
それに助かったところで、あの記憶が消える訳でもない。死んでないから運が良かったというなら、それは周りの人にとって、運が良かったと言うことではないだろうか。
日常を普通に送っていた、たまたま警官の彼女だった。そんな人はこの世の中にたくさんいる。私は至って普通の人間で、こんなことに巻き込まれて、運が良かったといわれても、辛いだけだ。
でも、生きている。体は心臓を動かし、脳を働かせて私を生かそうとしている。
だから、生きるのだ。生きてる意味など考えず、ただ今は生きている。
いつか私が笑える日が来るまで、私は自分の生命力によって生かされている。


三ヶ月後、私は無事に退院する事が出来た。薬を手放せないが、発狂することもなくなり、やっと自分を少しずつ取り戻している。
両親は実家へ帰って欲しそうだったが、私はここに残ることにした。
勿論、前に住んでいた街からは離れるつもりだが、仕事も続けることにした。
務める支店を変えてもらい、その近くにマンションを借りた。
母が心配して、当分、私のマンションで過ごすと譲らなかったので、しばらくは母と同居することになった。
両親には心配をかけたので、これ以上、心配させるのは気が引けたし、父にはもう少し不便な生活を強いることになるが、父もその方がいいと賛成してくれたので、それに甘えさせてもらうことにした。
もう季節は冬に移り変わり、随分とつめたい風が吹いている。
しかし、後1ヶ月もすれば春の日差しが戻ってくるだろう。
今の状況が幸せかと問われれば、分からないとしか答えられないが、少なくとも今こうして季節を感じることが出来ている事は嬉しいと思う。

人生、何が起こるか分からない。そして、それは普通に生活している日常にやってくる。決して特別な事ではない。誰にでも事故に遭う可能性があるように、巻き込まれる可能性はどこにでもある。
だから、分からない未来を想像して怖くなるより、今日を生きる事を考える。
私の人生は確かに狂ってしまった。それでも私には支えてくれる人がたくさんいる。
私にとって運が良かったのは、そんな人が周りにいたことだろう。
だから、今日も生きる。命がつきるまで・・・・・
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