第2話 <2日>

文字数 6,782文字

<朝>
いきなり光が差し込み、掴まれたかと思うとそのまま部屋の中へ転がされた。
まだ意識が朦朧とする中、目の前に現れたのは、母の怒った顔だった。
慌ててその場に正座をすると、母に服を脱がされた。
「服も毛布も濡れてるじゃない!どうするの!」
そう言いながら、腕やお尻に平手が飛んでくる。
片腕を掴まれているので、逃げることもかばうことも出来ず、ただ
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
と謝るのが精一杯で、何も出来ない。
裸にされ、外で冷え切った体に振り下ろされる平手は、まるで細い枝で思いっきり殴られた様に痛み、電気が走ったかのようにジリジリする。
叩かれた跡は手の形に赤くなり、叩かれるたびにそのあとは赤い塊になっていった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。」
声の出る限りに謝っても、母の平手は止まらない。
「うるせーよ」
あの人が怒鳴った。その声でやっと母の手が止まる。
「服、自分で洗いなさい。毛布も乾かして!」
そう言い放つと、やっと手を放され自由になった。痛みと悲しさで体が動かない。
(あめがふったから、そとにいたからぬれたんだよ。どうしておかさんはおこるの?)
何も言い訳もできず、させてもらえず、ただ叩かれる。どうして怒られているかもわからない。
母の怒りが治まるまで、謝ることしかできなかった。
痛い体で這うようにして、自分の布団まで戻り、辺りを見回して着られそうな服を探す。
ゴミの中に埋もれたシャツとズボンを見つけると、ゆっくりと体を起こしてそれを身に着ける。
汚れもひどく、匂いもするが着ないよりはましだ。
それから、濡れた服とズボンを持つと風呂場へと向かう。
母とあの人はこたつの部屋でテレビを見ながら、何か食べている。
その横をそっと通り抜け、風呂場につくと、風呂桶に水を汲んでその中に服を入れる。
洗面台の下から洗剤を出して、少しだけ風呂桶に流し込んだ。
汚れた服を洗っていると、水の冷たさで指の骨がキーンと痛くなる。関節もうまく動かない。
じんじんしびれる手に息を吹きかけながら、服を両手でもんで水を換える。
何度かそうした後、服を絞るが、うまく絞れない。
とりあえず服を横に置いて、ズボンにとりかかろうとした時だった。
ふと気が付くと、後ろにあの人が立っていた。
手にはさっき使った洗濯洗剤が握られている。
「おいクソガキ。お前も臭いから洗え。」
そういって洗剤を頭からぶちまかれる。
反射的に目を閉じたが、口に洗剤が入ったらしく苦い味と芳香剤の匂いでむせる。
それをしり目に今度は頭から冷たいシャワーがかけられた。
「おら、きれいに洗えよ!」
あの人はシャワーを片手に蹴りを入れる。
体が前へつんのめる。そこへ容赦なく何度も蹴りとが飛んでくる。
シャワーの冷たさも忘れるほど痛い。
蹴りは背中をお腹を足を手を顔以外すべてのところに痛みを与えた。
吐き気が襲うが、何も出ず嗚咽だけが漏れる。
(おかあさん、たすけて・・・おかあさん!)
心の中で何度も叫ぶが、声が出ない。
びしょ濡れになって横たわっていると今度は熱いシャワーの追い打ちが来た。
「冷たい水じゃ、風邪ひくだろ?これで温かくなるぞ」
そういいながら笑っていた。
「あつい!やめて!あつい!」
あまりの熱さについに叫んでしまった。
あの人の顔から笑みが消える。
「人がせっかく温めてやってるのに、熱い?」
腕をつかまれ、バスタブに入れられるとそこに水が張られていく。
「熱いんだろ?だったらこれに浸かってろ。いいというまで出てくるなよ。」
一気に体が冷やされ、体の半分、赤くなり熱く痛かった皮膚から痛みが引いていく。
だが、冷やされていく体は痛みと同時に体温を奪い、体から血の気が引くほど震え上がっていく。
両腕で体をつかみ、足を縮めてみても冷たさは消えず、体の感覚がなくなっていく。
耐えられずに、バスタブから這い出る。
だが風呂場からは出られない。体はブルブル震え、意識もなくなりそうになる。
寒さと痛みが唯一、意識をつなぎとめていた。
しかし、それも少しの間で、いつの間にか意識を失った。


「死んでねーよな?」
遠くの方であの人の声がする。
「息してるから、大丈夫。ちょっとやりすぎよ。」
「だってこいつ、臭いから。」
どうやら母とあの人が会話しているようだ。
意識がだんだんと戻ると同時に痛みが増していく。
体は熱い気もするが、寒気も襲う。
まだ濡れた服を着たまま、床に寝かされているようだ。
「とりあえず、布団に運んでよ。」
「めんどくっせーな。ったく。」
宙に浮いたかと思うと、そのまま乱暴に運ばれていく。
意識はあっても、体を動かす力はなかった。目を開けることすらできない。
布団らしき場所へ転がされると、あの人の気配は遠くなった。先ほどよりは温かい。
母たちがいるから暖房が付いているのだろう。
濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
いろいろな不快感に襲われながら、やっと目が開く。
いつもの天井が見える。
体は動かせないので、目だけで周りを確認する。
母とあの人は近くにはいないようだ。
まだ口の中が苦い。
「コホッコホッ」
思わず咳をすると、振動が体に響いて痛みの感覚が強くなる。もうどこが痛いかもわからない。
腕だけを動かして、毛布を探した。
(そうか・・もうふ・・・ぬれちゃったんだ・・・)
痛くて寒くて暑くて動けなくて、その感覚すべてが全部一度に体にのしかかってくる。
怖くて苦しくて悲しくて辛くて、でも何も言えなくて。
助けてほしくても、だれも助けてくれない。助けてくれる人を知らない。
もう嫌だと思っても、ここから抜け出せない。
「コホッコホッ」
また咳が出る。喉が異様に乾くが、水を飲むにはキッチンまでいかないといけない。
体はまだ動かしたくない。
「これでも食べて寝てなさい」
母の声だった。目の前に出されたのは食パンと水。急に嬉しさがこみ上げる。
(おかあさんがごはんくれた!もしかしたらしんぱいしてくれたのかな)
そう思うと痛い体も忘れて、起き上がれた。
母から食事を受け取る。力は入らないが、なんとか落とさずに受け取れた。
食パンを膝にのせて、コップを両手支え、水を口に含む。飲み込むときにまだ苦い味もするが渇きは潤せた。
それから食パンを一口。何もついていない食パン。焼いてもいない。
食欲はないが、今度はいつ食べられるかわからない。食べられるときに食べておかないと・・・
母はその様子を立ったまま見下ろしていた。
「あんたに死なれたら、こっちが困るのよ。毛布はないから、これでもかけときなさい。」
そういってタオルケットをこちらへ放ると、また別の部屋へ戻っていった。
食パンを片手に、それを手繰り寄せた。
単調な味の食パンを、ない食欲とは裏腹に、一瞬で食べ終わった。
(ふく、きがえないと・・・きもちわるい)
水分を含んだ服は体にまとわりつきながら、水滴を布団に滴らしている。もうすでに布団は人の形に濡れている。
また辺りを見回す。ゴミをよけながら、近くに着られるものがないか探してみる。
動くたびに体のあちこちが痛い。
近くに服らしきものはなく、仕方なしに四つん這いでタンスの方へ移動する。
タンスの中には夏物しか入っていないはずだが、とりあえず何かに着替えたかった。
ゆっくりとタンスの一番下をあけようとするが、その下のゴミが引っかかってうまく開かない。
力もうまく入らず、一番下はあきらめて二段目の引き出しをひらく。
数枚の衣類とタオル類が乱雑に入っていた。
そこからタオルと服を取り出し、濡れた服を脱いでタオルでそっと頭と体を拭いた。
優しく触れたつもりでも、ズキっとした痛みが走る度に顔がゆがむ。
ある程度水分を拭きとって、乾いた服に着替える。
腕を上げるだけでもしんどい。痛みと気だるさを抱えたまま、自分の布団へと戻る。
濡れてしまった布団をタオルで拭いてみたが、もちろん乾くわけはない。
しかし、座っていることも億劫で、濡れた部分にタオルを敷き、その部分になるべく当たらないように端に寝転がった。
「コホッコホッ」
また咳が出る。風邪をひいてしまったのか、洗剤のせいかは分からないが、のどが痛い。
どちらにしても、このまま寝ていることしかできない。
今日に限って母とあの人は時間になっても、家の中にいる。母の仕事が休みなのだろう。
あの人が何をしている人かは知らない。名前も知らない。
時々うちに来ては、何日か居て何日か来ない。
ただ「こわいひと」ということだけは分かる。家に来れば殴られるか、蹴られるか・・・その程度ならまだましだ。
ひどい時にはタバコの先を体に押し付けてくる。おかげで、やけどの跡はたくさんある。
何よりも、母が助けてくれないことが悲しかった。
最初のうちは助けを求めたが、何もしてくれず、助けてもらうことを何時しかあきらめた。
(どうしていつもこんなことされるんだろう)
理由なんてわからない。ただ悪い子だから、言うことを聞かないから、目が気に入らないから、音を立てたから、ここにいるから・・・
いろんなことを言われたけれど、どうしたらいいかわからないことの方が多い。
だからじっとしていると、それでも怒られる。
笑え、笑うな、泣け、泣くな、しゃべれ、黙れ。
何をしても怒られるのが、この家のルール。
唯一、母とあの人の機嫌のいい時だけは、じっとしていれば何もされない。
けれど、一度暴力が始まれば納得するまで終わらない。
(どうしたらいいこになれるかな。おかあさんはどうしたらやさしくしてくれるのかな)
いい子を知らないから、比較も真似もできない。
だからここで動かないことが一番いいことなのだ。



<夜>
しばらく留守をしていた母が外から戻ってきた。
あの人は相変わらず、こたつでテレビを見ているようだ。
風邪をひいてしまったらしく、熱のせいか頭がぼぅっとする。目の前の景色が夢の中のようにフワフワしていた。
熱を帯びた体はさらに重さを増し、眠気が襲ってくるが体の節々が痛んで、眠気と格闘している。
痛い部分を揉みたいが、痣がある部分にあたるので、揉むこともできない。
「チン」という音とともに、一気にカレーの匂いが部屋に充満する。
いつもならこの匂いにお腹か鳴るところだが、今日はその匂いが気持ち悪かった。
胃がむかつく。
母たちが会話をしながら、それを食べているらしい。皿にあたるスプーンの音がやたらと耳につく。
襖が閉められているせいか、声やテレビの音はこもって聞こえる。
暖房の温かさはそれにさえぎられているのか、あまり感じない。
かろうじてかかっているタオルケットの中で、熱と痛みに耐えていた。
喉が渇いて仕方がない。唇はカサカサになっていた。
(おみずがのみたい)
怒られるかもしれないけれど、お水を飲むためだけなら大丈夫かもしれない。
目を合わさず、静かに横を通るだけなら・・・
そう思って、体を起こした。
立ち上がると足元がフラフラする。ゴミがあるせいで、うまく進めない。
襖までたどりついて、そぉっと少しだけ開けてみる。
こちらを見る視線はない。
ゆっくりとさらに襖をあけて、慎重に足を進める。
目が合わないように、息すらもとめて音を立てないように・・・
どうにか二人の横をすり抜けて、キッチンまで来ることができた。
踏み台をつかって水を出す。コップに水を汲んで、ゆっくりと踏み台に腰を下ろし、その水を飲んだ。
喉を通る冷たさが心地よかった。もう一度蛇口をひねって、コップに水を汲んだ。
それから近くの布巾を濡らして、もう片方の手に持つ。
水をこぼさないように踏み台から降りて、再度二人の横をそっと通り抜ける。
テレビから視線は動く気配はない。
そのまま通り抜けて、襖を閉めると、やっと息ができた気がした。
水をこぼさないように、暗い中を布団までたどり着くと、腰を下ろして水を横に置いた。
濡らした布巾を額に当てると気持ちいい。
タオルケットを体に巻いて、申し訳程度の温かさに包まれる。
寝転がって、額に当てた布巾を裏返した。濡らした布巾はすぐに温かくなってしまう。
体は寒く感じるが、顔は熱い。
呼吸もなんだか詰まったような感じがして、苦しい。
(おかあさん、くるしいよ。さむいよ。)
声には出せないが、心の中で助けを呼ぶ。
(からだがいたいよ。しんどいよ。)
涙が自然とあふれてくる。その涙も熱い。
「コホッコホッコホッコホッ」
咳がひどくなる。咳を我慢すると、鼻から空気が押し出されて、呼吸ができない。
慌てて起き上がると、先ほど汲んできた水を一口飲んだ。
喉にピリッと針が刺さったような痛みが走る。
咳で喉を傷めたのかもしれない。なんだかイガイガして不快だが、どうしたらいいかもわからず、また横になる。
「コホッコホッ」
咳をする間隔も次第に短くなってきている。このままでは、いつ母に、あの人に怒られるかわからない。
咳を少しでも小さくしようと、布団に口を押さえつける。
しかし、布団の匂いと埃が口の中に空気と一緒に吸い込まれ、余計に咳が出てしまった。
気分も悪い。お腹から何かがせり上がる感覚がする。
(ここで、はいたらだめ。ぜったいにだめ!)
口を手で押さえたまま、とにかくトイレに行かなくてはと、気だけが焦る。
熱で朦朧とした意識の中で足元もおぼつかない。それでもトイレへと急いだ。
途中、母とあの人の横を通ったが、どんな表情だったかも見られない。
トイレにつくと、一気に吐いた。
吐いたところで、水しか出ない。そのあとは嗚咽ばかり。それでも吐き気は治まらなかった。
どれくらいそうしていたかもわからないが、吐き気が治まった後は、もう何の力も残っていなかった。
トイレの水はかろうじて流したが、そのあとは床にへたり込んだまま動けなくなってしまった。
早く戻らなくてはと思いつつも、足はおろか首すらも動かせない
(ああこのまま、おわってくれたらいいのに)
終わることが何なのか、はっきりしたことはわからないが、このまま誰にも怒られず、静かに放っておいてもらえるどこかへ行ってしまいたかった。
(ねむったまま、あしたがこなければいいのに)
息をすることさえしんどくて、もうここで眠ってしまいたかった。
しかし、そうはいかなかった。お約束のように、頭上から声が飛んでくる。
「あんた、吐いたの?汚いなぁもう!」
母だ。視線を頭上に動かして母を見る。
「何、睨んでんの?あんたがやったことでしょ?」
座っているお尻付近を蹴られる。痛みは感じないが、衝撃で体が横倒しになった。
それでも、もう体は動かない。
「早く、あっち行きなさいよ。まったく。そこにいられると邪魔!」
母が怒っているのは分かるが、耳に聞こえるのはその音の衝撃だけで、何を言っているのか理解ができない。
もう目も開けられない・・・
(おかあ・・・さん・・・・)
意識がなくなりかけたその前に、胸に衝撃が走った。
「グハッ」
声にならない声と空気が口から追い出される。
「どけって言ってるだろ!」
服の首元を持たれたまま引きずられ、ゴミの上をズルズルとキッチンまで運ばれる。
首元が閉まって息ができない。
やっと手が離され、せき込みと同時に肋骨の激痛に悶える。
「きったねーな、お前。いい加減にしろよ。親がどけっていったらどけよ!」
罵声を浴びせているのはあの人に代わっていた。
何が起きたのか、まだ頭が追い付いていない。
仰向けの状態で転がされたまま、上から足が降ってくる。
それは何度も何度も・・・・
「もう・・・やめてください・・・ごめんなさい・・・いたいから・・やめて・・・」
「ごめんなさいって何回聞いたっけ?まったくわかってねぇから、こうなるんだろうが!」
「ごめんなさい・・・ごめ・・・」
降り下りてくる足から必死に体を両手でかばう。横を向いて体をくの字に曲げて、両手で足を振り払おうとする。
大人の男からすればそれは無駄な抵抗にしかならない。
そんなことはものともせずに蹴り続けた。
しばらくして、あきたのか疲れたのか、あの人は突然蹴るのをやめた。
「気分悪!おい、出かけるぞ」
遠目に見ながらタバコを吸っていた母にあの人が言う。
「ああ・・うん」
持っていたタバコを灰皿に押し付けて、何事もなかったかのようにあの人と玄関から消えていった。
息をするたびにギシギシと痛む肋骨と、蹴られた痛みで声も出ない。涙を出す余裕もない。
このまま息を止めてしまいたいと思うが、体は酸素を求めて、息をすることをやめない。
救いといえば、慌てて母が出て行ったおかげで、照明と暖房が付いていることだった。
熱も寒気も痛みも全部がぐちゃぐちゃで何から感じていいのかわからない。
(たすけて・・いたい・・くるしい・・・たすけて・・・)
心はずっとうるさいくらいに叫んでいる。誰にも届かない願い。
(おかあさん・・・おかあさん・・・)
一番助けてほしい相手は、ここから去ってしまった。
(もういや・・・だよ。ここからだしてよ・・・もう・・・)
苦しい時間は終わった。
やっと意識を手放したから・・・・
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