第7話  会田愛菜 END ②

文字数 2,856文字

自室に戻った私は、祖父からもらった封筒を見つめて、中を見るかどうか迷った。
話を聞いても何も感じなかったのだから、読んでも読まなくても変わらない。
けれど、好奇心には勝てなかった。
母が何を書いてよこしたのか、興味はあった。
あの話を聞いた後で、母がよこした手紙にどんな言い訳が書いてあるのか。
今さら手紙を書いてくる事自体、反省していないということにも思える。
そっと白い封筒の中身を取り出すと3枚ほどの便せんが出てきた。
1枚目には祖父母に対する謝罪の手紙だった。
2枚目の初めには、愛菜へと書かれたもの。つまり私宛だ。
                愛菜へ
あなたにこの手紙が渡されることを望みながら、渡されない方がいいとも思っています。
私はSHIONの中であなたの痛みをこの身で感じました。叩かれる痛み、母に見捨てられる痛み、孤独に耐える痛み。小さな体で、何も与えられず、よく我慢できたなと心から思いました。
私は愛菜が受けた最後のたった3日間だけの痛みでしたが、愛菜は何年もこの痛みに耐えていたのですね。
愛菜にしてしまったこと、言ってしまったこと、今さら取り戻せることはなく、謝って許されることではないと思っています。
おばあちゃんから、少しだけ愛菜の話を聞いています。
6歳で私の中の愛菜は止まってしまっているけれど、少しずつ大きくなってもう私の知らない愛菜に成長しているはずですね。あなたを産んで、ちゃんと育ててあげられなくて本当にごめんなさい。
愛菜はきっと、私の子供に生まれたことを恨んでいるでしょう。
愛菜が生まれた時はあんなにうれしくて幸せだったのに、愛菜を幸せにしようと思っていたのに、私は結局、愛菜を傷つけることしかできませんでした。
愛菜さえいなければ、もっと自由だと思っていました。
私の人生を取り戻せるとも思っていました。
私は自分を不幸だと思い、その責任を愛菜に押し付けたのです。
けれど、私は愛菜の何倍も自由でした。
謝って贖罪をしようと思っているわけでもありません。
私は一生、愛菜の痛みを忘れずに生きていきます。だから、愛菜は痛みなど忘れて幸せに生きてください。
愛菜が味わった痛みの何倍も幸せに。
こんなことを私が言うのも本当はおかしいことですが、今は本当に、愛菜の幸せを心から願っています。
どうか、私のようにならず、幸せな人生を送れますように。
                                 会田愛穂
                                                     

決してきれいではない文字。乱雑な文字が何か所かにじんでいるのがわかる。
私・・・・泣いてる?
そっと頬に手を当てると、頬が濡れている。長くもない、たった便せん2枚の手紙。
「勝手すぎでしょ・・・・不幸にした人間がその人の幸せを願うなんて。」
腹が立った。手紙でまで勝手すぎる。
読んだことを後悔した。今の今まで私にとって母は他人だったのに。
祖父に話を聞いても、他人の昔話を聞かされている気がしていた。
それは退屈で、何のオチも工夫もない結末。
それなのに、たった2枚の便せんが私の心をかき乱した。
私の中にまだ母という存在があったのだと、涙が証明していた。
母のことは忘れたいと思っていた。母を恨みたくないとも。
母から受けた傷は今も体と心に残っている。本当は忘れたくても忘れられない存在だった。
忘れたいと思うのは、忘れていないから。
もうあの過去を思い出したくないから、母と一緒に忘れるはずだった。
「どうせならもっと言い訳くらいしてみたらいい。何が痛みを忘れなさいよ。」
便箋を感情の勢いに任せて破こうとしたとき、ふと封筒の住所に目が言った。
ここから電車で二駅ほど先の住所だ。
表に返し、消印をみると3年程前のものだった。
こんなにも近くにいたのに、一度も姿を見せたことはない。
破きかけてぐちゃぐちゃになった便箋を封筒に戻し、深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
大丈夫、少し取り乱しただけ。私は何も変わらない。あの頃には戻らない。
自分の胸に手をやり、そっとなで下ろす。
涙をぬぐって、ベッドにもぐりこむ。ベッドの隅ですっかり歳をとったポンが眠っている。
そっとポンを抱き寄せて、ぬくもりを分けてもらう。
私に気付いたポンは涙で濡れていた頬をひとなめして大人しくそばに寄り添ってくれている。
ポンを抱きしめたまま、目を閉じる。

母はまだあの住所にいるのだろうか・・・・


翌日の夕方、私は電車に乗っていた。
会いたいわけではない。ただ、どんな生活をしているのか見てみたくなった。
勢いよく流れる風景を見入る暇もなく、目的の駅に降り立つ。
立った二駅の距離。
近いけれどこの駅で降りたことはない。
私が住んでいる所とたいして変わらない街並みだった。
ただ少し違うとしたら、ここは潮の匂いがする。海が近いのだろう。
もう一度、住所を確認してスマホに入力した後、駅をでる。
人はまばらで、少し寂しい印象ではあるが、なかなかきれいな駅だ。
スマホの案内に従って、住宅街を右へ左へと歩いているうちに、上りの急な坂道が現れた。
もし母を見てしまったら、私はどうすればいいのだろう。いや私はただ見たいだけだ。
坂の下で立ち止まって、ふと考える。
スマホはその先を示している。
ここまで来たのだし、今もここにいるかも分からない。
その坂に1歩足を踏み出した。
ゆっくり上っていても、息が切れる急な坂。
背中に夕日の光を浴びながら、その坂を上っていく。
もうすぐ目的地のはずだ。
そう思って顔を坂の上に向けた。坂の頂上付近まで上がってきていた。
女の人が向かいから歩いてくる。白髪交じりのその人は、うつむいたまま坂を下りてくる。
ゆっくりと距離が縮まる。1歩また1歩。
夕日に照らされて、くっきりと輪郭が見え始める。
その姿は私が知っている母よりもだいぶ歳をとってはいたが、はっきりとわかった。
16年の歳月が流れてもわかってしまう母の顔。忘れたいと願い、捨てたはずの母の顔だった。
母がゆっくりと私の横を通り過ぎる。
私ははっと息をのんだが話しかけることはしなかった。歩みも止めなかった。
母は私だと気づいていない。当たり前だ。もう16年以上あっていないのだから。
ただ通り過ぎるその姿を横目で見た。
あの頃の母の形相はなく、普通の人に見えた。
私はそのまま坂を上る。スマホを握りしめ、目の前がぼやけて、頬に冷たい感覚を感じても止まらずに・・・・
「愛菜?」
後ろから声がした。私はそのまま足を止める。振り向く勇気はない。
もう1歩足を踏み出そうとしたとき。
「愛菜でしょ?」
2回目に呼ばれて、また足を止めた。やっとゆっくりと後ろを振り返る。
母は私の真後ろに立っていた。あんなに大きく感じていた母が今は私より小さい。
「愛菜でしょ?」
そっと私の腕をつかむ手はか細く、あの頃の怖さは感じられなかった。
坂の上からは大きな夕日が水平線に沈んでいく姿が見える。
遠い昔に私を殴っていたその手を返事の代わりにそっとつかんだ・・・
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