第5話  樹と由瑞 Ⅴ

文字数 1,827文字

由瑞はマンションの部屋の鍵を開けた。
「さあ。どうぞ」
樹を招き入れた。
樹は部屋の中を見回す。
まるでモデルルームみたいに整然としている。と言うか物がない。
「すごい。綺麗・・・」
樹は驚く。
「ちょっと、ストックはそこに置いて」
そう言うと樹の身体を支えて洗面所に連れて行く。
「まず、手を洗って。ストックを家の中でも使えるようにするから」

 由瑞は樹をソファに座らせるとストックの先を綺麗に洗って、そこに小さく切り取ったタオルを巻いた。輪ゴムで止めて完成である。
「はい。どうぞ・・。荷物はこっちの部屋に置いて置くから。この部屋を使ってくれ」
そう言うと史有の使っていた部屋のドアを開けた。
「有り難う御座います。沢山部屋があるんですね。凄いな」
樹が言う。
「沢山はない。これだけ。・・さて、もう随分遅くなってしまった。疲れただろう。風呂を用意するけど・・・・君はどうする?」

「風呂!」
こんな独り暮らしの男性の家で突然風呂に入ってもいいものだろうか・・・?
樹は由瑞の顔を見詰める。
樹のその顔を見て由瑞は声を上げて笑った。
「まあ、好きにして。俺は入るけれど」
「じゃあ・・・折角なので頂きます」
「OK」
由瑞はさっさと浴室に向かった。
樹は所在無さげに荷物の辺りをうろうろとする。


「お風呂が準備できたよ。さあ、どうぞ。」
「いや、どうぞ。由瑞さん。お先に」
「君がお客様なのだから、先に入って。ゆっくり温まって。」
「いや、そんな訳には・・」
「・・・・君はいちいち面倒だな。だったら一緒に入るか?」
由瑞にそう言われて樹は慌てて着替えを持って風呂場に向かった。


 綺麗なお風呂だなと思いながら、湯船に浸かる。
温かいお湯が気持ち良い。つい、ぼーと浸ってしまう。
全てが弛緩している。身体も頭も心も。
冬至の頃にテレビで良く見る、お湯に浸かるカピバラ程度の思考力で目を閉じる。

はっと我に返ると、急いで体を洗って風呂を出る。由瑞も風呂を待っていると気付いた。


浴室から出てコトコトと部屋に戻ると由瑞はテーブルに簡単なつまみと酒を用意していた。
「お先にお風呂頂きました」
樹が頭を下げた。
由瑞は言った。
「髪を乾かして。それとそこに湿布と包帯を置いたから」
「有り難う御座います。髪は由瑞さんがお風呂を出た後でゆっくりと乾かします。それにすぐに乾くの」
樹はそう言った。
「ビールが良ければ冷蔵庫にあるよ。ワインもあるから。適当に取って飲んで。それ、ロックで飲むと美味しい。
言って置くけれど強い酒だから、やけ酒しないでね」
「まさか」
樹は笑った。
由瑞は部屋を出て行った。

樹はソフアに座って窓の外の夜景を見た。
ブランデーをグラスに少し注ぐとそれに氷を入れた。
少し舐めてみる。
かなり濃い感じがする。いい香りがふわっと口の中に広がった。

ポーチを開けて肌の手入れをする。
自分は間違っていない?これで合ってる?
そう思った。
脳内秘書は冷たく笑う。
「ここまで付いて来て?今更?・・・何もかもぶち壊しになるよ。地獄を見るよ。見たいの?」
樹は返す。
「見たくない。・・でももうリセットしたい」
「自分に嘘、ついていない?本当は寂しいからじゃない?」
秘書はしつこい。
樹は心の声を無視してブランデーを舐める。

スマホに融からのラインが届いていた。
随分前だ。
あの大泣きしていた頃だなと思う。


「有難う。みんなのお陰で小夜子は戻って来る事が出来た。君は小夜子を抱える俺と一緒に居てくれた。俺は君に随分支えられた。
何て言っていいのか分からないんだ。君が突然帰ってしまって。
だから今は気を付けて帰ってくださいとしか言えない。小夜子が落ち着いたらすぐに帰るから。そうしたら会って話をしたい。お願いだから俺を信じて欲しい」

樹はまた泣きそうになる。
どう返信していいのか分からなかった。
何を信じるの?そう返したかった。
あなたは私に嘘を付いた。
一番好きだって言ったくせに。・・もう、嘘ばっかり。

「私も何と言っていいのか分からない。しばらく会いたくないの。少し考えさせてください。どうぞ今は小夜子さんの看病に専念してください。」
そう送るとスマホを閉じた。
暫く窓の外を見る。


携帯の着信音が鳴った。
画面には「融君」とある。
樹はその画面をじっと見たまま動かなかった。
電話は切れた。
彼とは何も話をしたくなかった。今は声も聞きたくなかった。
樹は携帯の電源を切った。
ソフアの隅っこに膝を抱えて座った。
広い窓の向こうをじっと眺める。
それが涙で滲んで来た。
「うざい」
自分で自分に言った。
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