第7話  小夜子

文字数 2,564文字

小夜子は青い世界を歩いていた。

もうずっと歩いている。周囲には何もない。ただ暗い青だけがゆらゆらと揺れている。
小夜子の頭上ずっと遠くに明るい場所がある。
 天上のその場所はいつも動いていた。光の帯が優雅に揺れる。そこを通り過ぎる光は、小夜子の場所までは届かない。光は屈折し拡散しそして消える。
「ああ・・水面」
小夜子は思った。あれは水面なのだ。という事は自分は深い水の底を歩いているのだろうか。
だからこんなに周囲が揺れるのだろうか。


時々、白くて長い物が自分の体に纏わり付く。まるで甘えている様に。

天井から人が落ちて来る。
戦いで敗れた兵達の破損した遺体。千切れた手足、首、・・
黒い帯で水を汚しながら次から次に落ちて来る。
それが自分の体に触れると「ぽん」という微かな音を立てて消える。
淡い光となって。
地面に落ちたそれも同じように消える。

それは繰り返す。
同じ場面を何度も。
記憶をリピートしているみたいに。

歩いている内に微かな音が耳元に届いた。何かを引き摺る音。ずずっずずっと重そうな物を引き摺っている。
小夜子は振り向いてその音源を探す。
どの方角から来るのか分からない。
前後左右どこからでも聞こえるように思える。


小夜子は歩き続けた。
何かを引き摺る音が次第に近くなる。
それは歩き、休み、何かを探し、そしてまた歩き始める。
何時しかそれは小夜子のすぐ後ろに来ていた。
小夜子は振り返る。

青の中で不鮮明な影がゆらゆらと揺れている。
少し小さい。
影は足に石を括り付けている。
この石を引き摺って来たのか・・。
さぞかし重かろう。


小夜子のすぐ後ろを影は付いて歩く。まるで小夜子自身の影の様に。
独りでこんな寂しい場所を歩くよりも、道中一緒に行くモノがいて良かったと思う。得体の知れないモノであっても。


 時々、読経の声がする。
それを聞くと遠い昔を思い出す。
自分自身の記憶で有る筈も無い。それなのにそれを知っている。

誰かが自分の為に経を読んでくれた。
それが心に沁みた。だが、それは自分をここに繋ぎ留める為の呪文だと思った。
それに心を許したらここから出る事は出来ないと思った。
いつの間にか小夜子は影の手を引いて歩いていた。


ここに私の体は有るのかしら?
小夜子はそう思う。だが、そんな筈は無いとも思う。
何故ならずっと水の底を歩いているから。
呼吸をしない私の『識』はここにある。
そして呼吸を続ける私の体はどこかにある。そう思いたい。

小夜子と影は青い虚空を彷徨い続けた。
天上の丸い窓を羨望の眼差しで眺め、また歩く。もうどれ位歩いているのか分からなくなっていた。

遠い何処かで現世の気配がする。
水面はずっと上なのに、小夜子の耳には人の話し声が聞こえて来た。
水を通して聞く音だから随分不鮮明だと思った。声の主は知っている。融だ。それに伊刀と夜刀。私の式神達。
話の内容は分からないが、存在の気配が感じられる。
だからまだ自分は死んでいないと思った。
その声を聞いた時、思わず小夜子は叫んだ。
「私はここにいる」。「助けて」

でもそれは彼等には届いていないのだとすぐに理解した。
彼等との距離は近い様で途方も無く遠い事を知った。


あの時、出て行く伯母様を止めていれば、こんな事にはならなかった。
だが、あの日が百日目だったのだ。
何を願っていたのかは分からない。でもあの日でそれは成就される筈だった。
それなのに怜が深い眠りに就いていた、あれを呼び起こしたから・・・。

「ソレハチガウ」
小さな影が言う。
「何が違う?」
小夜子は尋ねる。
影は答えない。
白い物がやって来た。ゆらゆらと揺れながら。身体を摺り寄せ、纏わり付く。

 左の方に紫色の光が見えた。
それを目指して歩いた。
その光の正体が分かった。
勾玉のお守りだ。
あの場所に私の身体がある。

怜が届けてくれたのだろうか?それとも伯母様だろうか。
・・・あの淵で失くしたはずなのに。
激しい流れにもまれている内に切れてどこかに行ってしまったはずなのに。

私の体に戻ったようだ。
という事は伯母様と怜は生きているのだろうか・・。


 ある時、天井から女が落ちて来た。
女の手を慌てて掴んだ。
掴んだ拍子に女は消えた。
小夜子は自分の手をじっと見た。

誰かが自分を呼んでいる。
女の声。それはとてもクリアに響いた。
その声に向かって歩いた。

歩く事に疲れた。
影はどこに行ったのだろう。足が酷く重い。見ると自分の足に石が括り付けられていた。
疲れる筈だと思った。
もう歩けない。
白い物と少し眠る事にした。それはくるくると蜷局を巻いた。
少しだけ。ほんの少しだけ休みたい。



小夜子はふと目覚めた。
見慣れない白い天井が見える。
それをじっと見詰める。
目を閉じると青い虚空が見えた。

私は夢を見ている。

融や怜と逢えた事が夢だったのだろうか。
実は私はまだあの青い虚空を彷徨っているのだろうか。

小夜子は目を開いて辺りを見回す。
自分のベッドにうつ伏せて、融が眠っていた。
小夜子はほっとする。

漸く自分の体に戻ってきたのだ。
自分の腕や髪や顔を手で擦ってみる。ちゃんと脳が反応する。
これは現実だと思った。

融の髪に手をやる。柔らかい髪の感触を確かめる。
彼の頬に手を触れてみる。
温かい。
融が目を覚ました。
「小夜子。起きたのか・・・」
「融。私は大丈夫だから。部屋で眠って。疲れているのだから」
融は小夜子の手を握る。小夜子も融の手を握り返す。
融はじっと小夜子の顔を見詰める。
そして微笑んだ。少し寂しい微笑みだった。
「?」
「融・・何かあったの?」
「・・何故?」
「寂しそうだから」
「そんな事はない。ちょっと疲れただけ。・・さて、眠るかな。小夜子。‥良かった。意識が戻って。」
融は優しい眼で小夜子を見る。


「私はどの位眠っていたの?」
「6年・・もうすぐ7年目か。君はもうすぐ29歳だ」
小夜子は驚いた。
「そんなに長く?」
「そう」
小夜子は驚きの眼差しで融を見る。
そしてはっと気が付く。
「伯母様は?」

融は黙る。
そして首を横に振った。
小夜子は融の顔を見詰める。
そして顔を両手で覆った。

「済まない・・私が付いていながら」
「小夜子。その時の事も後で詳しく聞きたい。何を聞いても驚かないから、本当の事を教えてくれ」
融はそう言って小夜子を見た。

「・・・でも、今日はもう眠るよ。伊刀と夜刀が付いて居るから、何かあったら呼びに来させて」
融はそう言うと静かに部屋を出た。

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