第18話  融 金曜日

文字数 2,213文字

小夜子の熱は下がらなかった。うつらうつらと眠っている。
夢を見ているのか、時々うなされている。

融は不安に駆られた。
「血液検査の結果では別に感染症に罹っている様子もないし・・・。他に症状は無いから解熱剤を投与して今日は様子を見ましょう。きっと体が付いて行かないだけの事だと思うのよね」
雪乃はそう言った。
「済みません。熱があっても俺は明日には東京に帰るので、後はお願いします」
融はそう言った。
「大丈夫よ。何かの時には大学病院に入院させるから」
雪乃はそう言った。


 時々スマホを取り出し、樹に何か送ろうかと思うが、電話にも出なかった彼女の気持ちを考えると何と送っていいのか分からなくなる。
もしかしたらこのまま、また彼女は自分から離れて行ってしまうかも知れない。そう思うと居ても立ってもいられない気持ちになる。すぐに東京に帰って彼女に会いたい。樹の顔を見て、そして抱きしめる事が出来たらどんなに安心するだろう。
小夜子の事を説明したい。ただ嬉しかっただけなのだと。もう二度と小夜子を抱いたりしないと。
・・・樹は分かってくれるだろうか。

考えたくは無いが佐伯の存在が気になる。


融はぼんやりと庭を眺める。


そんな融の姿を蘇芳は見ていた。
「樹さんの事はもう諦めて、由瑞に任せたら」
そうも言いたかったし、
「もうここはいいから東京に帰って、樹さんと話をすればいい」
そうも言いたかった。
元気の無い彼の姿を見るのが辛かった。


由瑞にメッセージを送った。
「由瑞が樹さんの事を好きだという事を融さんに告げてもいいのかしら?」
「構わない。と言うか、もう気付いていると思う」
「樹さんはどうしたの?」
「昨日まで俺と一緒に居たけれど、仕事に行ったよ」
「ずっといたの?」
「そう」
「泊ったの?」
「うるさい」
由瑞はそう返して来た。


樹は融を諦めたのだろうか。
それともただ寂しかっただけなのだろうか。
どちらにしろ、もう融との関係はうまく行くことは無いだろう。
蘇芳は樹も可哀想だなと思った。
自分が樹に何も言わなくてもこの二人の関係は自然消滅する運命にあったのだろう。
あまりにも小夜子の存在が大き過ぎる。
そうなれば自分もチャンスなのに何故か心が晴れなかった。
 

最近、融はよく母の事を思い出す。
母も自分と同じように悩んだのだろうか。
息子の自分には何ひとつ愚痴をこぼした事も無く、小夜子の事も本当の娘の様に可愛がって育てた。怜の父親が亡くなって彼が帰って来た時も、驚いてはいたが
「お帰りなさい」と言って、何一つ嫌な顔もせずに家に迎え入れた。


お百度参りか・・・。
母がここに居たら何と言うだろう。小夜子を置いて、さっさと東京に帰れと言うだろうか。
自分と同じ愚を繰り返すなと。

もしかしたら、母は心の中では妹を憎んでいたのかも知れない。
彼女は母の幸せを奪い取ったから。
母は自分の幸せよりも妹を守ることを選んだ。祖父一人に妹を預ける事を是としなかったのだ。
夫と一緒にどこにでも行ってしまえば、また違った人生が開けただろうに。
だが、年老いた父親と何かと欠落した妹を置いて自分だけ幸せになる事は出来なかったのだ。


里子の妊娠中に里子の夫は妻の妹と通じ、融と怜は半年違いで生まれた。
どちらが誘ったのかは分からない。
そもそもそんな事を問題視出来る様な女では無かった。

怜は融にとっては異母弟だが、それは口にする事すら憚れる様な忌まわしいタブーで、里子はその後あっさりと夫と離婚して一人で子供を育てた。怜は夫が連れて行った。
そんな事情を怜が家に戻って来るまで融は全く知らなかった。
怜が融に全てを教えた。

融は愕然とした。
そして里子に真偽を確かめた。
里子は能面の様な無表情さでそれを認めた。
母のそんな顔は初めて見た。
その時初めて融は母親の心の闇を覗いた様な気がした。

「情けない男だったけれど、随分後悔したみたいだよ。けれど優しさだけはあったから。あの人にも」
怜は融に言った。
「僕の事は可愛がってくれたよ。僕の母親はどこからか見付けて来た。その人がずっと僕の面倒を見てくれた。金は随分渡したみたいだよ。彼は資産家だったからね。君の養育費もかなり支払っていたんじゃないかな。まあ僕達に遺産も残してくれたからそれで良しとしようか」
怜は何の拘りも無くあっけらかんとそう言った。
「僕達の父は薄羽の縁者だ。結局どこかで繋がっているんだ。遠い昔から。飽きもせず。ぐるぐると。狭い枠の中で回っている。そこから出ようとすると、足を引っ張られるんだ」
怜はそう言った。
「君はわざわざ足を引っ張られに帰って来たのか?」
融がそう言うと
「いや、引っ張られたから帰って来たのさ」
と答えた。

離婚した父親からの養育費と言う話は聞いていたが、そんな事情だったとは融は全く知らなかった。随分ショックな話だったが、その頃は親元を離れて一人で東京にいたので、それが本当に有難かった。

母は怜を見て何を思っただろうか。
それとももう全てを許していたのだろうか。
 
夫と通じて子供を産んだその妹を守りながら生きて行くという選択はどれ程のものだろうか。
母は諦めたのだ。
自分を捨てて家を選んだ。
それは致し方ない事であったのだろうか。

母は赤津そのものを憎んでいただろうか。
自分の中に流れるその血を。
それとも・・・
何度も同じ疑問が湧き上がる。

自分は樹に何と言えばいいのだろうか。
樹は分かってくれるだろうか。
君を失うかも知れないと思うだけで、この身が斬られるように辛いという事を。

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