第21話 樹 

文字数 2,639文字

お婆は皺だらけの顔に埋もれた小さい目で樹を見る。
「それであなた様は・・・」お婆が言った。
「私、神社にお参りに来ました。この池も、もう一度見たかったの。天気が良くて良かったです。小夜子さんの事もよくお祈りして行きますね」

「ふむ。有難い事じゃ」
お婆は返す。

 お爺は森の中で二人を見ている。
ふと、後ろに何かの気配が・・お爺は振り返った。
そしてびくりとした。
黒い・・のそり、のそりと歩く巨体。・・熊だ。
熊が水を飲みに出て来たのだ。

お爺は「くそっ」と呟くと、杖を持って森を走った。
凄い速さだ。
あっという間に熊の真ん前に飛び出た。
熊は突然目の前に現れた人間を見て驚いた。
後ろ足で立ち上がる。
お爺はいきなり熊の横面を杖で殴った。
「ガツッ!」
殴った杖をくるりと持ち返ると反対側も殴る。目にも止まらぬ速さだった。
熊は驚いて逃げて行った。
何が起きたのか分からなかった。
お爺は熊を追い掛ける。熊は必死で逃げる。
お爺はもうこれ位でと思う所で立ち止まると、ぜいぜいと荒い息を吐いた。
そしてまた元の場所に風の様に戻って来た。

樹は森を見る。
遠くで何か音がしたように思えた。

お婆がお爺を手招きをしている。
お爺はよぼよぼと森の中から出て行く。

「千根のお爺じゃ。儂の連れ合いよ」
御婆が紹介する。
「融さんの友達の宇田樹です」
樹が自己紹介して頭を下げた。
坊主頭のお爺はにこにこと笑う。
・・・友達。
お婆は心の中で敏感に反応する。


「ところでおばあちゃん達は何をしていたのですか?」
樹は聞いた。
「いやあ・・小夜子様が可愛がっておられたオオサンショウウオの姿が見えなんだ。どこかに迷い込んでおるのではと探しておった所よ」
「オオサンショウウオ!・・凄い。そんな生き物がいるんですね」
樹は興奮する。
「私も一緒に探します」
樹はそう言った。

「じゃあ、一緒に探そうかの。まあ天気もいいし・・。だが、あなた様は杖を突いておられる。無理はせん方がいい」
お婆が言った。
「色々と固めて来ているので大丈夫です。どこを探せばいいですか?水の中ですか?それとも森の中ですか?」
「そうよのう・・じゃあ浅い場所を探してくだされ。崖が池に入り込んでいるその窪みやシダが生い茂っている、その後ろ・・木の枝の下など。足元に気を付けての」

「分かりました」
樹は水に入る理由が出来たとばかりに喜んでじゃぶじゃぶと歩く。
ストックの先でそっと茂みをかき分けてみる。
透き通った水がゆらゆらと動く。
水は太陽の光を反射してきらきらと輝く。
その美しさにしばし見惚れる。
身体を屈めてオオサンショウウオを探す。

お婆は杖の上に手を合わせ、そこに顎を載せて樹を見る。
お爺がズボンの裾をまくって樹の隣を歩く。

鳶の鳴き声が聞こえた。
「ぴいひよろろ・・」
樹は空を見上げる。
真っ青な空のうんと高い場所に鳶がいた。
手を翳してそれを見送る。

そしてまた腰を屈めて水面の際を丹念に探す。
「・・いませんね」

そうやって池の周囲を歩く。
そろそろ腰が痛くなる。

「お爺さん!いました!何かいました。これ違いますか?」
樹が興奮して崖の窪みを指差す。
小さなそれ。
ぬるぬるとした茶色の。
ヤモリだか、イモリだか、それに似た感じの。
太いミミズに飛び出た目と手足が付いた様な。
それが水に浸った草の奥の小さな穴でうろちょろと動いている。じっと見ていると器用に水に浮かんで泳いで行く。
「あっ。白いのがいる」
樹が騒ぐ。
「おお!これじゃ。これじゃ。これはまだ子供じゃが・・・おうおう。ウタよ。何でこんな小さくなってしまったんじゃ」
「あっ。お爺さん。ここにも同じのがいました」
「えっ?」
「あっ、ここにも」
「ええっ!」
「全部で三匹。沢山いますね。」
樹はにこにこと笑って言った。
「初めて見ました。オオサンショウウオの子供。驚いた。凄く気持ち悪いですね」

「サンショウウオって白なんですか?」
「いや、いや。これは特別じゃよ」
お爺が言う。
「もっと探せばもっといるかも知れない」
樹は草を搔き分ける。
「いや、もういい。これで充分じゃ。これ以上見付けられても困る」
お爺が慌てて言った。


樹は池の社に向かってぱんぱんと手を打ち鳴らす。
そして祈る。
長い間じっと目を閉じて何かを祈る。

目を開けて一礼をするともう一度周囲をぐるりと見渡した。
本当に美しい場所だ。それを心に仕舞い込む。
「よし」
エミリーの絵画の様に、脳の引き出しにそれを仕舞い込んだ。
水の音と森を映した透明な池。そして青い空。これでいつでもここを眺められる。
 
「じゃあそろそろ時間なので私は帰ります。向こう側の神社にも寄って行くので」
そう言うと頭をぺこりと下げる。
お婆がじっと樹を見る。
そして言った。

「そうか。そうか。ウタを探してくれて有難う。・・・あなた様にちと話があるのじゃが・・」
お婆が言った。
「何でしょう?」
樹は答える。

「・・小夜子様と融様はの。幼い頃から一緒に育って、儂らはいつかあの二人は一緒になるものとばかり思っておった。それが、あなた様もご存じの様に小夜子様が眠りに就かれ・・儂らも随分心配したが・・これでようやくお二人が幸せになれると安堵しとる所じゃ。・・・あなた様にはお辛い事かも知れんがの。・・・だが、小夜子様は子を生さねばならぬ。それはお家の宿命じゃ。
あなた様にはいくらでも世の中に連れ添う男がいるであろう。だが、小夜子様には・・・小夜子様の事を良く知り、深く慈しみ連れ添う相手は融様しかおらんのじゃ・・。あなた様には誠に申し訳が無い事です」
御婆は深く頭を下げた。
「お婆、止めんか」
お爺が言った。


樹は下を向いた。
涙がぽとりと落ちた。
それを拭うと樹は顔を上げて笑って言った。
「分かっています。もう分かっているから。それ以上言わなくて大丈夫。私、今日はここにさよならを言いに来たの・・・・どうぞ融さんに伝えてください。末永く・・お幸せにと。私はもうここへ来ることもないから」
笑いながらも涙はぽろぽろとこぼれる。
泣く資格なんかない。自分でそう思う。
駄目だなあ。私は。根性無しで。


お婆はじっと樹を見る。
お爺はお婆を睨む。
「お婆はもう帰れ」
お爺が怒って言う。
「儂が送って行くわ」

「熊が出ると困るから。儂が送って行くわ。よいよい。気にするな。空気だと思ってくれてよい。ゆっくりお参りしておくれ」
お爺はそう言うと樹に合わせて杖を突いて歩き始めた。
樹は数歩歩いて後ろを振り返る。
笑顔でお婆に手を振った。
「千根のおばあちゃん。元気でね。さようなら」
「あなた様もお達者で」
老婆は深く頭を下げた。

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