第14話  樹と由瑞 Ⅺ

文字数 2,064文字

気が付くとソファの上で毛布を被って眠っていた。

由瑞はテーブルの上で筆を持って何かを書いていた。
樹は半身を起こしてその姿を眺める。

「起きたの?」
「はい。・・・済みません。寝ちゃって・・あまりにも気持ちが良くて。今は何時ですか?」
「12時だよ。・・俺もすっかり寝ちゃったな。すっきりした」
由瑞はそう言った。

「ねえ。ここに来てくれる」
樹はソファから降りる。
由瑞は樹の体に片手を回す。そして、紙面を指差し「これ、何だか分かる?」と聞いた。

すっきりとした文字で「逍遥遊」とある。筆は大筆。墨の香りが漂う。
「凄い。・・達筆って事は私にも分かる。・・何て言うか・・凛々しい文字ですね。
しんにょうが3つとも付くって面白いですね。リズム感があると言うか・・でも3文字って・・面白いですね。」
「何が面白いと思うの?」
「バランスですかね?4文字みたいに安定していないし、1文字、2文字みたいに堂々としていない。これで5文字だと・・どうかな。この空白の部分が何とも・・」
「中々いい事を言うね・・・ところで、君は『逍遥遊』って言葉を知っている?・・ヒントはこれです」
由瑞は開いた本のページを指差す。

「北冥有魚 其名為鯤 鯤之大 不知其幾千里也 化而為鳥 其名為鵬 鵬之背 不知其幾千里也 ・・・」

樹は答えた。
「ああ・・。知っています。『荘子』ですよね。
 北冥に魚有り。その名を鯤と為す。・・その大きさが幾千里。それが化けて鳥となる。それが鵬。翼を広げて幾千里ってやつですよね。めちゃくちゃスケールの大きい話。」

由瑞は笑って言った。
「君は雑学がすごいな。記憶力があるんだね」
「雑学と言うか・・まあ、専門が世界史だから。私、インプットは割と得意なんです。・・・でもアウトプットは苦手なんです。・・・由瑞さん、漢文が好きなんですね」
「ああ。俺の場合は趣味。・・・老荘は好きで本をよく読んだ。でもどちらかと言うと荘子の方が好きだな。『斉物論』の『胡蝶の夢』とか。あの『周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか』などね。」
「蝶になった夢を見たのか。それとも自分は蝶が見た夢なのかってやつですね」
「そうそう。でも一番好きなのはこの鵬の話だ」
由瑞はそう言うと、筆に墨を付けた。

「じゃあ、いい?この文字を一緒に書くから」
「何のイベントなんですか」
樹が笑う。
「本もあげたし、筆もあげた。まさかあれから練習していないって事はないだろうな。
いいから。筆を持って」
そう言うと樹の手に自分の手を重ねる。
片手を樹の腰に回す。
「そんなにくっ付かれたら動けない」
樹が笑う。
「いいから。黙って集中して」
「済みません。書き順、一応説明して貰ってもいいですか?余りにも画数が多くて」
樹が言った。
 


半紙に練習をする。
文字を一つ書く度にくすくす笑う。
上手く書けたとか、ちょっと曲がっているとか。バランスが悪いとか。
由瑞は小さな声で呟きながら文字を書く。
「心持ち斜めから入る感じ。・・はねは前に言ったね。・・・そうそう。・・『しんにょう』は躍動感が出る様に入り方の角度と速さと力の入れ具合を加減して・・」

「そんな、耳の傍で言わないで」
樹が耳を塞ぐ。
「何で?・・感じるの?耳が弱い?」
由瑞は笑いながら耳朶に唇を寄せる。
「止めなさい。ふざけないで。文字が書けないでしょう」
樹は言う。

「・・・黙って。ちょっとだけ・・・こうやっていさせて」
由瑞は静かに筆を置くと樹を胸に抱き、髪に頬を寄せた。
「あの時もこうしたかった。・・『雪月花』を書いた時」
そう言って黙って目を閉じた。
樹は仰せの通りにじっとして動かない。
視線を窓の外に向ける。


「何を考えているの?」
由瑞は声を掛ける。
「内緒」
樹は答える。


暫くして由瑞は言った。
「よし。真面目に書こう。じゃあ、次清書ね」
由瑞は樹から離れると新しい用紙を出した。
「ちょっと紙質が違う」
「そう。手漉きの紙。折角だから」
「高いのでしょう?」
「まあね。多少は」

黙って文字を書く。
画数が多い所為か字が大きくなってしまって、『遊』が小さくなる。それでそれを少し下げる。
『逍』と『遥』の間に『遊』で三角形を作っている様な。
文字の大きさも均一ではない。そんな物が2枚。

由瑞はそれを並べて見た。
「・・・ああ。いい字が書けた。伸び伸びとして如何にも楽し気な感じがする。君はどっちの字がいいと思う?」

樹は由瑞の書いた文字と見比べる。
「ちょっと歪んでますね。てか、かなり(笑)。・・・由瑞さんの書いた文字と比べてみると・・まるで小学生が書いたみたい」
そう言って笑った。
「これはこれでいい。ここに乾かして置こう」
そう言うと文鎮を置いて暫しそれを眺める。


「さて、すっかり目も覚めたから。海にでも行こうか。部屋に居ると、どうも手を出したくなる。止められなくなると困るから。・・・そうだな。昼飯はどこかで食べよう。上手い海鮮でも。そして夕日を見て帰って来る。そのまま君の家に送って行くから、荷物を用意して」
由瑞はそう言うと樹にストックを渡した。
「それ、君にあげるから。持ち帰っていいよ」
彼はそう言った。
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