巨悪と遭遇
文字数 3,412文字
「うちにアイスピックなんてあったっけ?」
僕はさりげなく問う。
「ううん」
同じくしゃがんだ葉月が、ぶんぶん首を振った。
死体は見ずに、僕だけを注視していた……まあ、いつものことだけど。
「去年、修学旅行で行った北海道の街で買ったの。遠くで買えば、後から買った場所とかわからないかなと思ったんだぁ」
なにその、計画的行動は。
どちらかと言えば、僕が考えそうなことでもあるが。
「つまり……あらかじめ、殺人の予定でもあったってこと?」
「違うもん。おにいちゃんが武器を持ち歩いているのを知ってたから、葉月も見習おうと思って。実際に役立ってよかったの!」
小学生の頃に戻り、自分のことを名前で呼んでいるのはともかく――おぉおおお、武器携帯は僕が原因かっ。
まあいいけど……確かに、ストーカーには効いたしな……効きすぎたとも言えるけど。
「で、このおじさんはおまえをここへ引きずり込んで、乱暴しようとしたわけだよな」
「外にいる時から胸を掴もうとしたし、この中へ引きずり込んでからは、押し倒そうとしたのよ!」
葉月の顔がさすがに暗くなった。腕をさすっているのは、そこを掴まれたからだろう。
その時のことを思い出しているようだ。
「まあ、いいよ」
僕は慌てて、涙目の葉月を遮った。
懐中電灯の光を絞ってもう一度死体を確認し、手袋をつけたままで所持品の点検もし、決断した。
「床の保護のためか、シートが下に敷かれてるよな? これだけ回収して処分しよう。見当たらないけど、ここでもみ合ったなら、葉月の髪くらい落ちてるかもだし」
幸い、シートは分割して敷かれていて、死体の下敷きになっている部分は折り畳めば運べる大きさである。
死体を他へ運ぶ方がいいかもしれないが、死体がデカいし、動けば動くほど目立つ。
僕は自分の能力に頼ることにした。
「ごめんね、迷惑かけて」
折り畳んだシートを抱えて家を出る時、葉月が実に申し訳なさそうに謝ってきた。
僕に怒られると思っていたらしく、何も責めなかったのが意外なようだ。
「気にするなって。葉月が抵抗しなきゃ、今頃はとんでもない結果に終わってたかもしれないんだ。後は、僕に任せろ」
言い切った後、最初が肝心だよなとふと思う。
今、この瞬間を他人に見られでもしたら、かなりよろしくない。
「あ、しまった!」
僕は思わず呻いた。
というのも、そんな心配をちらっとした途端、誰も用事がないはずの工事中の住宅地に、角を曲がってぶらりと誰かが入ってきたからだ。
しまった、余計な心配をした結果が、早速これだっ。
そいつは、あたかも散歩中でもあるかのような態度だったが、明るい国道の方から、わざわざこんな街灯もロクにない場所へ入ってきたのだ。
怪しいと言わざるを得ない。
おまけに、真っ直ぐ僕らの方へ歩いてくる。この道の行く先は、突き当たりなのに。
まだ距離があるからわかりづらいが、どうも僕らが目当てのように見えた。
ふいに、葉月が僕に身を寄せて囁きかけてきた。
「おにいちゃんは……引き寄せの術の秘密を知っているから、大丈夫だよね?」
「えっ」
なにを言われたのか、すぐには思い出せなかったが。
葉月自身が「ほら、あの事件の後、教えてくれたじゃない?」と説明したので、ようやく思い出した。
そう、僕はあの事件の後、確かにそう教えた。
正確には、こうだ。
『引き寄せの術とか、今よく話題になってるだろ? あれはな、実はプラス面のみを強調しているんだ。本来、その逆の現象を強調すべきなのにさ』
『それって、なぁに?』
当時から僕に懐いていた葉月が、興味津々で訊いてきたのを思い出した。
『引き寄せの術は幸運も引き寄せるが、本人が想像する災厄も、同じくらい素直に引き寄せるってこと』
――だから、心の中を常に穏やかにして、つまらない心配は一切しちゃ駄目だぜ?
当時、そんな風に話を持っていったような。あんな些細な話題を覚えていたのか、この子。
信頼に満ちた葉月の瞳を見て、僕は微笑した。
「そうとも、葉月。僕に任せておけ。……悪いことは起きないさ」
とにかく、今だけでもいいからそう信じろ!
僕は心中で己に言い聞かせた。
相手との距離が、徐々に詰まってくる。
さりげなく見ると、相手の男は僕と同じくらいの年齢か……やや年上といったところか。ただ、どういうわけか、ヤケに印象に残りにくい顔だった。
僕はたまに、義母の明日香さんから「生意気そうな美少年」と親愛を込めて呼ばれるが、美少年は置いて、生意気という形容は石田氏からも聞いた。
あと、いつも遠くを見ているような表情してるよ、などと葉月には言われる。
そして、前から歩いてくる少年は、その二つの特徴に見事に合致していた。つまり、僕と共通点が多いかもしれない。
服装はジーンズとセーターなので、これも普段の僕と似たり寄ったりだ。
なんとなく不思議な気分になり、顔を覚えておこうとするのだが……どうしても印象に残らなかった。不思議と言えば不思議である。
向こうもさりげなく僕達を――いや、僕のみに目を向けているようで、僕らは接近しながら、互いに相手を観察し合っていた。
そこで僕は、ようやく殺人現場を後にした直後だったのを思い出す。
「葉月、さりげなく恋人同士のように演技して歩こう」
囁いた僕が腰の辺りを抱くと、葉月は本当に嬉しそうに微笑み、「喜んで!」と答えた。自分も僕に抱きつき、見事な演技をしてくれた。
……いや、別に葉月は演技じゃないかもしれないけど。
仲睦まじく寄り添ったまま、僕らは少年と交差する。
瞬間、彼がなにか呟いたような気がした……うっすらと微笑みながら。
それでも、僕は一切気付かなかった振りをして、彼をやり過ごした。なおしばらく歩いた後、僕らは二人同時に足を止め、背後を振り返った。
「……あら?」
「おっとー」
葉月の不審そうな声と、僕が意外なことにぶち当たった時の乾いた声が、これも見事に重なった。
「消えちゃったよ、あの人」
「消えたなあ」
他人事みたいに応じはしたが、実はこれは、かなり不気味なことだった。
すれ違ってから、せいぜい三十秒ほどしか経っていないのだ。なのに、後ろはどん詰まりの一本道で、死体のある端の家まで、真っ直ぐな直線である。
突き当たりまでわずか三十秒では、とても到達できないはずなのに。
「どこかの並びの家に入った?」
「明かりもついてないけどな」
葉月の指摘に、僕は首を振った。
「それに、仮にどこかの家に入るにせよ、三十秒じゃ、まだドアの前にもたどり着けないよ」
「だよねぇ……だいたいあの人、奇妙なこと呟いてたの」
「葉月も聞いたのか? なんて言ったかわかる? 僕は今一つわからなかった」
「聞こえたよ……あれは、おにちゃんに話しかけたと思うの」
なぜか葉月は、確信を持って断言した。
「……友か敵か? あの人、おにいちゃんにそう話しかけたよ。葉月なんか見もせずに」
「身に覚えがないなあ」
僕はわざとらしく夜空を見上げて言ったが、内心ではかなり思うところがあった。
「ちなみに、どんな顔だったか覚えてる? あんまり印象に残らなかったんだけど」
「葉月は……かなり特徴ある顔だったと思う。だって、おにいちゃんに少し雰囲気が似てたもの。ただおにいちゃんと違って――」
珍しく言い淀んだので、僕は優しく促してやった。
「僕と違って、なに?」
「……おにいちゃんと違って、もう純粋に悪の側って気がしたの。笑い方からして、そんな感じだったな」
「純粋に悪の側……か」
背筋にぞくりと来るものがあったが、僕は意識して平静を保った。
「それってつまり、巨悪ってことだよな? しかも葉月には、僕より向こうが悪党に見えたのかい」
「葉月にとっては、おにいちゃんは悪じゃないもの」
ツインテールの片方をいじくりながら、葉月は僕に笑いかける。
僕は何事もなかったように微笑み返しながら、ある予感が胸に兆していた。
……さっきの彼とは多分、また会うことになるだろうと。