僕のいない世界に亜矢が取り残されることはない
文字数 4,851文字
問題の廃塾は五階建ての細長いビルで、経営していた当時は小学校から高校まで、それぞれの階で専門に教えていたらしい。
だが、今は持ち主が逃げて放置された、単なる廃ビルに過ぎない。
僕は石田氏に頼んで、ビルの駐車場ではなく、少し離れたコンビニ駐車場に停めてもらった。
「専用の駐車場があるのに、なんでこんな場所に停めるんだ?」
「まあ、言うならば用心のためです」
「……なにか予感があるのか?」
深刻そうな顔で尋ねる石田氏は、以前に比べてだいぶ僕に毒されてきたようだ。
前は、てんから馬鹿にしていただろうに。
「そのことを考えたくないけど、今回は用心したい気分なんです」
いつものように、僕はあえて考えないようにして、石田氏からボストンバッグを受け取った。どのみち、コンビニから廃塾までは、歩いても二分ほどである。
そして塾に着いてみれば、駐車場にはところせましと車が止まっていた。
だいたい、迷惑を顧みないヤクザさんのベンツなどが目立つが、ちらほら他の高級車も見える。もしかしたら、警察関係者かもしれない。
……おまけに、僕を「上位者」と思い込む桜井亜矢がエントランスから出てきて、歩いて来た僕に一礼した。
「こんにちは、守さま」
「こんちはー」
僕は適当な返事をして、同じくボストンバッグを手にした亜矢を眺める。
彼女はいつもの女子高生風の服装じゃなく、今日はぴっちりしたジーンズと薄いブラウスという格好だった。
……サイズがぴったりなので、胸の形と大きさがよくわかる。
漫画みたいに奇形的な大きさではなく、標準より心持ち大きいという、まさにバランスの取れたスタイルだった。
「動きやすく、あまり目立たない服装で……というご指示でしたが、これでどうでしょうか? 下着だけは普通に、以前ご指示を頂いたローテーション中で、水色ですけど」
後半のみ、僕にしか聞こえない囁き声だった。
心配そうに尋ねる彼女に、僕はにこやかに頷いた。
「ベストだと思う。僕のいい加減な頼みを聞いてくれて、感謝するよ」
どうでもいいが、下着の色まで決めてほしがる癖は、さすがにそのうち治るだろうと思ったのだが、僕の考えが甘かったらしい。
「感謝など! お命じくだされば、いつでもどんなご指示にでも、喜んで従います」
星が散っているように見える輝く瞳で、亜矢がそんなことを言う。
別に自慢というわけじゃないが、明らかにこの子は、僕と話している時が一番美貌に磨きがかかっている気がする。
「ちょっと、八神君」
その反面、あっけに取られていたルナが僕の手を引いた。
「桜井さんも呼んだの?」
囁く彼女に、僕も小声で答えた。
「もう情報が知れてしまったし、そうなると亜矢は、必ず僕の役に立とうとするんだよ。この前のように、たとえ見えない形であろうと。それなら、最初から関わってもらった方が、お互いに危険が少ないだろ?」
「はんっ」
ルナではなく、横で聞いていた石田氏がせせら笑った。
「モノは言い様だな、おい? 一番の理由は、素直なカワイコちゃんを侍(はべ)らせたいからってだけ――」
言いかけたものの、冷え切った瞳のルナに睨まれ、ぶるっと震えた。
「余計なこと言わず、あなたは先に行きなさい!」
びしっと命令され、一気に五回くらいコクコク頷く。
「りょ、了解であります」
いきなり妙な敬語を使って、石田氏は逃げるように先に入ってしまった。
「大丈夫だよ」
亜矢と僕を見比べるルナに、肩をすくめてやる。
「あの人が思うような関係じゃないんだ、本当に」
「わ、わかるつもり……だけど」
大人しく控える亜矢を見て、ルナが不安そうに言う。
しかし、すぐに首を振って謝った。
「ごめんなさい、つまらない嫉妬なんかして」
「いいって。とにかく、先に最上階の控え室に行ってて。ちょっと亜矢に話があるし」
「わかったわ」
何度か振り返りつつ、ルナも大人しくビルの中に入っていく。
多分、僕らが最後だろう。通常、使徒は主人より遅く来たりはしない。
「あの!」
ルナ達など、最初から見てもいなかった亜矢が、ふいに眉根を寄せた。
心配そうに、ルナとタメを張るような長い髪を、背中の方へ払う。
「もしかすると、今の守さまは、既にヴァンパイア化されていますか?」
……いつもながら、この子には意表を衝(つ)かれる。
僕はかなり驚いて、亜矢を見返した。いつも僕のことばかり考えているから、それほど勘が働くのだろうか?
「まぁね。でも、使徒化はしてない。自信があればこそ、この道を選んだんだよ」
辛うじて僕が答えると、亜矢はふいに優しい笑顔を広げた。
「それなら! 私を吸血してくださいませんか。守さまの使徒として、精進しますから!」
「……え」
不覚にも、僕はしばらく絶句してしまった。
亜矢に知られたら、当然こうなるだろうと……少しは考えておくべきだったかもしれない。
「使徒にはならなかったけど、噛まれたことによって、僕はヴァンパイアの端くれにはなっているだろうと思う。そんな僕に噛まれると、どうなるかわかってる?」
「もちろんです」
亜矢はしっかりと頷いた……怖いほど真剣な表情で。
「守さまに吸血して頂き、守さまの使徒になれるなら……こんなに嬉しいことはありません。それが、本来あるべき私の立場だと思います」
……いつも思うが、こういう時の亜矢は迷いがない。
というか、そもそも僕に助けを求めた三年前の時点で、既にこの子に迷いなどないのかもしれない。
「でも、今の状態でも、そう変わらないと思わないかな? 亜矢は僕に従っている。僕は亜矢に指示を出し、亜矢の人生を導いている。ほら、同じことだろ」
「……あの」
ふいに哀しそうな顔になり、亜矢は俯いた。
「私では、まだ守さまの使徒になるには、ふさわしくないということでしょうか」
「まさか。僕はそんな崇高な人間じゃないし」
崇高な人間など本当にいるのかも定かではないが、少なくともそういう人は、「場合によっては街中の人間を使徒化する」などとは考えないだろう。
人を殺す時も、もう少し悩むに違いない。
亜矢を落ち込ませたくないし、勘違いもしてほしくない。
それでも僕は、最低限、今の危うい関係を保ちたくて、断固として断ろうかと思った――が。
不意に天恵のように脳裏に囁くモノがあった。
もし……亜矢が使徒化すれば、万一のことがあっても、簡単には死なないわけだ。
「そうか、使徒化すれば、亜矢の安全度は増すかもしれないな」
思わず呟きが洩れた。
「そうですっ」
現金にも、ぱっと亜矢が顔を上げた。
アイドルのオーディションに受かるほどだ、間近で見ると、文句のつけようもない、美しい顔立ちだった。
ルナと並んで立っても甲乙付けがたい美貌となると、正直僕は、亜矢と……ぎりぎり、義妹の葉月しか思いつかない。
そんな子が、ひたむきな目つきで僕を見つめている。
「それに、さらにもっともっと、守さまのお役に立てるかもしれないですしっ」
「僕のことが一番だというのは、今の亜矢からすれば、仕方ないし、止められないことだとわかっている。でも、せめて自分の幸せを追及するのを、二番目の目標にしなよ」
「守さまにお仕えする以上の幸せは、ありません」
「……そうか」
ここまで突っ込んだ話し合いをしたのは、初めてかもしれない。
僕はだいたい、「あ、この子はもう不退転の決意で来てるな」と思った三年前の時点で、うるさいことは一切言わなかったから。
「わかったよ、桜井亜矢」
僕は亜矢の運命を大きく変えた三年前のあの時のように、厳(おごそ)かな口調で述べ、手を伸ばした。
自然と低頭した亜矢の香しい頭に、自分の手を置く。
「その願いを聞き届けよう。むしろ、僕の方からお願いする。どうか、僕の最初の使徒となってくれ」
「あ、ありがたき幸せ」
まるで昔の騎士のような口調で、亜矢が震える声を出す。
冷静な彼女には珍しいが、それは歓喜のためだと僕には理解できた。他人から見れば歪んではいるだろうけど、これも彼女の愛情の深さの現れだと思う。
「おいで、亜矢」
僕は彼女の手を引いて、近くの守衛室の中に入り込んだ。
ドアを閉め、小さい窓のカーテンも下ろす。薄闇になったが、今の僕にはなにもかもはっきり見える。
「目を閉じて。首筋を噛むけど、あまり痛まないようにするよ」
優しく囁くと、亜矢はうっとりした表情で答えた。
「どうか……存分にお願いします」
僕はゆっくりと顔を近づけ、首筋に唇を寄せた。
吸血した時間は数秒くらいだったろう。
鮮血の味というと、鉄さびに似たような味かと思ったんだが……今の僕には全然違う味に感じた。まるで、極限にまで凝縮された美味さのエッセンスみたいなもので、どんな味かと訊かれても、妥当な形容を思いつかない。
ただ……確かにこれは、相当な精神力で制御しないと、病みつきになるだろう。
ヴァンパイアが恐れられるのも、当然だ。
だから、数秒で身を離したことに対して、自分を褒めてやりたかったほどである。
「……でも、まさか亜矢まで気持ちよさそうにしてるとは思わなかった」
僕と同じく頬を紅潮させた亜矢を見て、僕は首を傾げた。
目がいつも以上にトロンとしているし、どう見ても吸血を喜んでいるように見える。
おまけに足に力が入らないのか、座り込んだばかりの椅子から立とうとして、ガクガク身を震わせた挙げ句、またとさっと座ってしまった。
僕がルナに吸血された時は、別になんともなかった気がするんだが。
「大丈夫……だよな? どこか具合が悪いとかある?」
「い、いいえ……ただ……吸血して頂いた瞬間、頭の中でなにかが爆発したように……弾けてしまい」
「なにが弾けたのかな?」
僕がそっと尋ねると、亜矢はいつもの冷静さが消え、潤みまくった瞳で見返した。
「……か、歓喜が……です」
「えぇーーっ」
それは……ちと大げさなような。
しかし、亜矢は僕に対してのみ、通常とは違う反応を見せるのも確かだ。
だから吸血がどうのより、「吸血されて守さまの使徒にして頂いた!」という事実に、歓喜したという意味かもしれない。
それでも、僕が「大きく深呼吸してみて。それを何度も繰り返す。そうしたら、段々落ち着いてくるよ」と指示してやると、律儀にすぐさま実行し、ようやくいつもの冷静さを取り戻してくれた。
「ご迷惑おかけしました。もう大丈夫です!」
ゆっくりと立ち上がり、輝くような笑顔を見せる。
「改めて……使徒としての私も、よろしくお願いします」
深々と一礼した後、「これで、守さまがいない世界に取り残されることだけは、絶対に有り得ません。数年来の心配事が、そっくり消えましたっ」なんて、夢見る少女みたいな表情で言ってくれた。
もちろん彼女の場合、お愛想ではなく、本気で言ってるのである。
そういえば、通常はそうなるはずだな、ヴァンパイアが噛んだんだから。
僕が死ねば、亜矢もその瞬間に死ぬ。確かに、僕がいない世界に彼女が取り残されることだけはない。
……その逆は有り得てしまうけど。
最初に頼みごとをされた時は、まさかここまで深い関係になるとは思わなかった。
だけど僕は亜矢の額にキスして、新しい人生を祝ってあげた。
その方が、亜矢が喜ぶだろうから。
「僕は身内には優しいんだぜ? 万事、僕に任せてくれ」
「はいっ」
やたらと元気になった亜矢を従え、僕はようやく最上階を目指した。