妬まれる
文字数 5,213文字
最上階の控え室は、元は塾の講師が授業時間まで休憩する場所である。
ノックしてからそこを覗くと、すぐにルナが立ち上がった。
……のはいいが、僕と亜矢を見比べた後、大きく息を吸い込む。
「その子、使徒化したの!?」
まさか、一発でバレるとは思わなかった。
でも、今の雲の上を歩くような表情の亜矢を見れば、誰でも異変くらいは感じるか。
「まあ、本人たっての希望で」
僕は肩をすくめて、愚にも付かない言い訳をする。
「それに、忠臣に等しい彼女が不死身化したら、僕としても心強いからね。別に盾にする気はないけど」
「いえ、盾にしてくださった方が嬉しいですっ」
「いや、しないって!」
「はぁああああ」
僕らの愚にも付かないやりとりを聞いて、ルナは深いため息をついた。
「まあ……八神君の身の安全を思えば、使徒が大勢ついてくれた方が心強いのだけど……できれば、男の使徒の方がよかったかも」
「いや、それは僕がちょっと異議を唱えたい」
大真面目に反論した途端、隣ででっかい喚き声が聞こえた。
『んだと、こらっ。やんのか、おうっ!?』
『やかましいっ。てめぇ、どこの組のモンじゃいっ』
そして、大勢が叫ぶ声と、悲鳴も。
「……メンツにヤクザがいるとはいえ、少しくらい大人しくできないものかね」
僕は顔をしかめて嘆息したが、それでもルナに向かって手を差し伸べる。
「なにはともあれ、あんなでもルナの臣下達だ。さあ、行こうか」
「わかったわ」
気を取り直したのか、ルナが僕の手を取って立ち上がる。
ただし、亜矢の件は二人きりになった時に、また改めていろいろ言われそうだ。
廊下を少し進むと、この元学習塾が健在だった頃に、教室として使われていた部屋がある。
石田氏がその前で立っていて、タバコなど吸っていたが……僕とルナの姿、とりわけルナの姿を見て、慌てて廊下にタバコを捨てた。
「中で喧嘩になってるな」
足でタバコを踏みにじりつつ、他人事のように言う。
そんな……通りすがりの猫でもわかるようなこと言われても。
「なんで石田さんは廊下にいるんです?」
「マスターを待っていたに決まってるだろ。だいたい、俺はガイキチ共は嫌いでね。巻き添え食いたくない」
現在進行系で汚職警察官なのに、なかなか笑える返事だった。
「……まあ、いいですけどね」
石田氏からボストンバッグを受け取り、僕は肩をすくめる。
おもむろにスライドドアを引き、中へ入っていく。
背後からルナと亜矢がついてきたが、ルナの「あなたは、しばらくわたしから離れてて!」という声を聞き、くすっと笑ってしまった。
しかしまあ、せっかく広々とした教室なのに、この殺伐としたことはどうだ?
警官らしきグループの真ん中にこの街の警察署の署長が立っていて、ヤクザ関係者らしきグループに向かって、ガンガン喚いている。
喧嘩は今や、ヤクザ対警察に様変わりしたようだ。
もちろん、警察だからといって、ヤクザさんもしゅんとしたりはしない。
あと、残りの良識ある生徒さんやその他は、遠巻きにして眺めていた。
「貴様達、まさか計算して使徒になったのではあるまいなっ」
「はあっ? ボケてんのかおっさん」
「お、おっさんだと! わしを誰だと思って」
「もう関係あるかっ」
サングラスと白いスーツという、いかにもな格好の上級ヤクザ(仮名)が、べっと教室に痰を吐く。うわぁ。
「俺達の盟主は元からサツなんかじゃないが、今や人間なんか超越した方だっ。サツがどうした、こらっ」
うむ、と僕は一人で頷く。
ここに集う者達は、石田氏を除いて誰もルナと直接会ってないが、事情は全員に僕が説明しているし、電話でルナに簡単な挨拶もさせた。
それだけでも、ちゃんと使徒だって自覚は出来ているわけだ。
結構、結構。
……それはそれとして、この馬鹿騒ぎは頂けないな。
僕は空いた席の椅子を一つ掴み、廊下側の窓に向けて思いっきりぶん投げた。
これなら、椅子は廊下に落ちるし、破片も外に飛び散らない。
……と思ったけど、既にヴァンパイア化した僕の腕力は以前とは大違いで、ドガャアアアアンンッなどという、言語道断な破壊音がした。
当然、唾を飛ばして喚いていた連中はもちろん、静かに眺めていた一般人さん達まで、ぎょっとしたようにこちらを振り向いた。
教室が静まり返ったことは、言うまでもない。
僕は彼らの反応を無視して、悠々とバッグのチャックを開け、適当に武器を見繕って手にする。……お、マイクロウージーか。いいな、これはお気に入りだ。
単発じゃなくて、連射も可能なサブマシンガンだし。
微笑して、早速、安全装置を外しておく。
弾はもう詰めてあるので、弾倉だけ何個かベルトに差しておいた。
「お、おいっ。なにする気だ?」
白スーツのヤクザさんが張り詰めた声で尋ねた。
「……別に。ただ、なんとなくこうしたい気分なんです。でも、いつでも撃てるようにしたし、気分次第で貴方を蜂の巣にするかも。……使徒と言えども、なかなか痛いですよ?」
僕は独白のように言い放った後、ようやく顔を上げた。
「余計な騒ぎは控えてください。今日は貴方達が仕えるべき女性も来ているんですから」
僕がルナの方を見ると、彼女は悠然と歩を進め、僕の横に立った。
ルナの人間離れした美貌と堂々たる態度は、こういう時にはひどく効果的かもしれない。
育ちのせいか、絶対に一般人には真似できないものがある。
「まず一番最初に、あなた達に告げます。これは、とても大事な命令です」
元が貴族でもあるルナは、当然のように述べた。
そしてそれがまた、ごく自然体である。マスターとしては、実に頼もしい。
ただ、言葉の後に僕の腕にそっと自分の腕を絡めた……これは余分じゃないかな。
「わたしと同じく、この八神君の言葉にも、きちんと従いなさい。八神君を軽く扱うことは絶対に許さない。この人の命令はそれがどんなものであれ、わたしの命令と同じと知りなさい。このことを忘れた者には死を与えます――いいですね?」
冷酷そうな表情でぐるっと見渡すと、亜矢と僕を除く全員が――その場で恭しく跪き、頭を垂れた。
よろしい、なかなかよい顔合わせになりそうだ。
「ご苦労様。席に着いてくれて、いいですよ」
僕が柔らかく告げると、皆が一斉に立ち上がって席に着いた。
まあ、学習塾の机だけに、大人達は窮屈そうだったが。
それにしても、これだけ年齢も職業もバラバラな一同が集まるのは、怪しさ満点だろう。単なる中学生から、警察署の署長までいるのだから。
「ちょっといいか……いや、いいですかね?」
板についた横柄な言葉遣いの途中で、さっとルナが睨んだせいか、白スーツの男が咳払いして言い直した。
たった今、大喧嘩していた双方のうち、ヤクザさんの方である。
「まあいいでしょう。ご意見あるなら、どうぞ」
僕が頷くと、わざわざ立ち上がってサングラスを取り、真っ直ぐに僕を見据えた。
おお、なかなかの迫力だなぁと。
『関東でも指折りの組織の幹部だ。うるさい奴だぞ』
石田氏が近寄り、僕に耳打ちする。
知ってますとも。彼を使徒に加えることに決めたのは、僕ですからね。
「俺は自分が使徒とやらにされた経緯についてはあまり納得していないが、いざなってみると、あねさん――じゃなくて、マスターの下について働くことに文句はなくなった。不思議だが、それが使徒というものだろう」
そこで間を置き、ぐっと俺を睨む。
中年間近にしては、年季の入ったガン付けだった。きっと、日頃からせっせと研鑽(けんさん)しているに違いない。
「わからないのは――八神さん、あんただ。何度も言うが、あんたの命令を聞くことはマスターの意志なんで文句のつけようもない。ただ、どうせならお二人の関係と、あんた自身がどういう立場か、もう少し教えてもらえんかね?」
『あいつ、いっちょまえに嫉妬してるぞ、おい』
また嬉しそうに耳打ちする石田さんである。
『マスターがまだ高校生だと知らないようだな……いや、案外知ってて言ってるのかもだが』
「おい、石田」
立ったまま、じろっと彼が石田氏を見据える。
「おめーと話してるんじゃねーよ。横から口出しすんなっ」
「ああ、そうかい」
意外にも石田氏は怒らなかった。
皮肉な笑みを広げ、顎を上げてヤクザを見返す。
「しかし、おめーの嫉妬はわかりやすいんだよ、工藤。自分じゃ隠してるつもりだろうが。ヤクザは腹芸が出来なくていかんな」
「……なんだと」
工藤氏とやらがこちらへ出てこようとしたので、僕はマイクロウージーを置き、代わりに右手を上げた。
これも特に意味はない。
めんどくさい争いはもうたくさんなんで、じっとしててください……くらいの内心が、思わず手を上げる動作になっただけだ。
しかし、厳つい工藤氏は壁に当たったかのように前進をやめ、呻吟し始めた。
ふいにぶるぶる震え出し、その場から動けずにいる。
「な、なんだ……どういうことだ」
「おや、急に歩けなくなりましたか?」
僕は真面目な顔で小首を傾げる。
いつも言い訳しているが、自分でそうなるように意識したわけじゃないので、本当に疑問はあるのだ。でも僕の内なる願望では、彼がそうなることを望んでいたということだろう。
ならば、警告してあげるのが親切というものか。
「気をつけた方がいいですよ、工藤さん。それは悪い前兆かもしれない。ふいに歩けなくなるくらいです、次は足が萎えてその場で倒れるかも」
わざと不吉なことを述べ、そのまま手を下ろす。
あたかもそれが合図だったかのように、どすんと彼が尻餅をついた。逞しい身体を震わせ、脂汗をかいて僕を睨んでいる。
「ま、まさか……これはまさか……おいっ」
「僕ですか? 先程の返事になりますけど」
僕は微笑して教えてあげた。
「僕の正体は、単なるルナの補佐役兼同級生ですとも。ひょっとしたら、貴方が内心で思っているように、虎の威を借るキツネかもしれない。まあそれは置いて」
そこで僕の笑顔は完璧に消え去り、無表情のまま工藤氏を見た。
「気をつけましょう、くどいですが。尻餅つくくらいなら、次は心臓が止まらないとも限ら」
「ま、待てっ。いや、待ってくれっ」
強面する彼が、切迫した悲鳴を上げた。
「二度と余計なことは言わないっ。すぐに席に戻る!」
「くはははっ。ざまぁみろって!」
石田氏が人の不幸を大いに笑っていた。
まあ、ルナ自身が止めずに僕の横顔ばかり見ているので、注意する者もいないが。
ただし、亜矢だけは誇らしそうに微笑みつつも、手元の資料と眼前の集まりを見比べ、しきりになにか調べていた。
この子にとっては、僕が工藤氏にやられる可能性など、考慮もしていないのだろう。
あるいは、気になることを見つけたかだ……案外、そっちかもしれない。普通なら、こういう時の亜矢は、絶対に僕に注目しているから。
「席に戻って、進行を妨げない? そういうことですか」
僕は思い出したように話しかけた。
「そう、そういうことだっ」
まだ立ち上がろうともがきつつ、工藤氏が叫ぶ。
深甚な恐怖に打ちのめされていた。
彼が遭遇したことのない力に触れてしまったからだろう。今後、何度も悪夢にうなされるに違いない。
僕は数秒ほど考え、「まあ、使徒にする労力を考えれば、一度のミスで抹殺もちょっとね」と呟き、そっと両手を広げた。
「ご苦労様でした。では、席に戻ってください」
途端に、尻を蹴飛ばされたように工藤氏が跳ね起き、自分の席に飛んで帰った。
「工藤さん」
座したばかりの彼に、一応、教えてあげた。
「念のために言っておきますが、次に僕が『役に立たない上に、めんどくさい男だ……退場してもう方がいいか?』と思ってしまった時、貴方は確実に死ぬ。理解しましたか?」
言葉にもできないのか、工藤氏は何度も何度も頷いていた。
「これでわかったでしょう、あなた達」
ルナがやたらと誇らしげに、胸の下で腕を組んだ。
「八神君の命令には、問答無用で従いなさい。このわたしでさえ、彼の言葉に従っているのだから。……今後はそのことを、決してて忘れないようにしなさい」
――使徒たるあなた達の、身の安全のためにも。
ひどく優しい言い方で、ルナは締めくくった。