アイドルになっていた崇拝者
文字数 3,364文字
「うわっ」
慌てて向き直ると、僕は谷川にガミガミと八つ当たりした。
「中学の三年間はともかく、こんな偶然があるかっ」
「偶然じゃないのかもな。だいたいおまえはモテすぎ――」
愉快そうな顔で言いかけた谷川は、そのまま口を閉ざしてスライドドアの方を見た。
谷川だけではなく、クラス中が妙に静まり返った。
……密かに大勢の注目を浴びつつ、外人さんみたいな真っ白肌の吉岡が、教室に入ってきた。
しかも、「教室では目立たないようにしような」と昨晩話して相互理解を得たはずなのに、彼女は悠然と歩いて僕の脇まで来た。
机に置いた僕の掌にそっと自分の手を重ね、囁く……わざわざ身体を折り、僕の耳元で。
「……おはよう、八神君」
それからちらっと谷川の方を横目で見た……ある種の意図を持って。
十分に伝わったと見えて、谷川は慌てて立ち上がり、「ええと、俺実は他の席に行こうと思っててさー」などと呟き、速攻で移ってしまった。
そして、当然のように吉岡が僕の隣に座る。
……正直、頭の痛い展開だった。
その直後にチャイムが鳴り、担任の先生がやってきてHRとなったので、吉岡とは話す機会がなかった。
しかも、担任は国語の教師でもあって、1時限目がその国語だった。
休み時間がきてようやく機会を得たが、僕は吉岡よりまず、桜井亜矢の方へ歩いて行った。吉岡にも言いたいことはたくさんあるが、さらに気になるのは、彼女の方だったので。
亜矢は例によって始めから僕の方を見ていたので、目配せして教室を出ると、時間を置いて後からついてきた。
僕は廊下の端にある階段を上り、屋上へ出る踊り場のところで立ち止まった。
「それで、どういう事情?」
後からしずしずと上ってきた亜矢に尋ねる。
「……え?」
小首を傾げて本気でわからない顔をする彼女に、さすがに眉をひそめた。
「わからないか? 僕と同じ高校に進学するなんて聞いてないし、ましてや同じクラスになるなんて、偶然とは思えないだろ?」
「あ、はい。もちろん偶然じゃないです、最初から決まっていた必然です」
納得がいったように、亜矢がコクコク頷く。
「守さんの進学先を知った段階で、私が事情を話すと、うちの祖母が、わざわざこの学校の校長先生に頼んでくれました」
笑顔で当然のように説明する。
……今の亜矢には、身内は祖母しかいない。そしてあの人は、僕を例外とすれば、亜矢の病気について唯一理解している人でもある。
普通はそんな症状自体、嘘だと思うだろう。
「今更ですけど……守さん、お久しぶりです」
にこやかに亜矢が一礼した。
呼び方を注意しようとして、思い出した。
そもそも、最初は人前でも平気で「守さま」と呼ぼうとしていたのを、「どうしてもと言うのなら、人目のないところに限って、さん付けでもいい」というところまで妥協したのは、僕自身である。
ある事情により、亜矢は冗談抜きで僕を自分の「上位者」だと勘違いしていて、全ての行動指針を僕の判断に委ねようとする。
文字通り、僕に自分の人生を丸投げしているのだ。
彼女にとっては、それが一番自然なことらしい……難儀なことに。
多分、戦国時代の主従関係どころじゃないだろう。
「中三の進路選択の時、特に何も訊かないなぁと思っていたら、最初からこうすると決めてたんだな」
別に質問じゃなく、僕は呟く。
それが、亜矢にとっては当然で当たり前のことだと、どうして僕は気付かなかったのだろう。
……あと、三年前に亜矢に「あの頼みごと」をされた時、どうして僕は断らなかったのだろうか。
間が悪かったとしか、言い様がない。
亜矢も、当然のことなので特に答える必要はないと思ったのか、ふいに話を変えた。
「あの、守さん。ご報告があります」
「なに?」
吉岡の件かと身構えたが、そうではなかった。
「私、アイドルになれました!」
「……えっ」
驚くと同時に、僕は慌てて自分の記憶を探った。
そういえば、中学三年の後半くらいに、「もうすぐ進学ですが、今後私はどうすべきでしょうか?」と亜矢に真顔で問われ、僕はちょっと考えてから「アイドルを目指すのはどうか」と答えた気がする。
別に悪意からの提案ではなく、全方位的に愛想よくすべきな職業を目指せば、自然と今の病気も快方へ向かうのではないか? などと甘いことを考えたからだ。
この子のことだから、当然、本気で目指すだろうとは思っていたし、今はその努力中だろうなと、僕は勝手に思っていた。
それが、こんなに早くか!
「本当にアイドルになれたって? まだあれから数ヶ月だと思うけど」
「はい。全ては守さんのお陰です」
亜矢は、満開の桜みたいに華やかな笑顔を広げた。
「冬休みの間にオーディションに受かりまして、来週に初ライブがあるんです。私はメインのおまけですけど」
報告してから、もじもじと亜矢が肩を動かした。
今更だが、中一の死にそうなあの頃に比べて、今の「女子力」の爆上げっぷりはとんでもない。
アイドルになれました、とか聞いても「まあ、この子ならなぁ」と普通に納得できるほどである。
ただ、次の瞬間亜矢に、「ライブ……観に来てくだいますか?」と訊かれた時、返事に苦慮した。
「その時に用事なければ行くよ。せっかく、亜矢の努力が実ったんだしな」
「いえ、とんでもありません。全ては守さんのご指導のお陰です。他のこと同様、この恩義も一生忘れません」
……そういうことを大真面目で言うから、困るんだが。
「いやいや、亜矢がアイドル適性あったからさ」
だいたい亜矢の場合、僕の提案に乗って駄目だった場合は、「ああっ。私の努力が足りなかったばかりにっ」とか「私が守さんのご期待に応えられなかったのは、守さんへの信頼心が少し足りなかったせいだわっ」とこれも本気でそう思い、全部自分のせいにしまうのだった。
つまり、どちらに転ぼうと、僕は感謝されるか謝罪されるかしかない。
……宗教の教祖じゃないんだが。
考えている間にチャイムが鳴って、亜矢はまた一礼した。
長い髪がさらさらと流れて、よい香りがした。
「では、守さん。お先に失礼しますね……高校生活も、よろしくご指導お願いします」
前に十分に言い聞かせたので、噂にならないよう、亜矢は素早く先に引き上げた。
「はああああ」
思わず息を吐くと、背後で低い声がした。
「……どういう娘なの」
「おっとお!」
さっと振り向くと、屋上へ出る扉の前に、吉岡が定子のごとき目つきで立っていた。
つまり、僕の真後ろである。
いつからそこにいたのか、さっぱりわからない。
これも特殊能力らしい。
「さすがの僕も、ちょっと驚いたかな」
吉岡は、全く笑わなかった。
さらに低い声で同じことを訊かれた。
「それで、どういう娘?」
きゅっと眉根を寄せる。
「……だいたい、なぜあの子は呼び捨てなの?」
「いや、本人の要望なんで。これでも、妥協したんだ」
僕は両手を広げて言い訳する。
「最初はあの子、『奴隷扱いでお願いします』って、大真面目に僕に懇願した……大苦労して、それだけは回避したんだ。まあ、一種の病気でな」
「……病気?」
吉岡が美しい切れ長の目を細める。
パトカーに乗せられて連行途中の、見え見えの詐欺師を見るような目つきだった。
「そう、真面目に病気だ。依存性パーソナリティー障害より、数段上のひどい症状。自分が見出した特別な誰かに、全てを委ねようとしてしまう。……とにかく教室へ戻ろう。お望みなら、放課後にきっちり説明するよ」
「ぜひそうして」
階段を下り始めた僕にやむなく並びつつ、吉岡が念を押す。
「それから、わたしのことも、今後は月夜(ルナ)と呼んでね」
「……その件についても、後で話し合おう」
勘弁してくれ、と言いたいのを堪え、僕はそう答えた。
この妥協心が、そもそも駄目なのかもしれない……今更、遅いが。