亜矢のお願い
文字数 3,392文字
朝から吉岡の機嫌はあまりよくなく、結局、これまでに全く会話していない。
僕も特に空気の悪化を改善しようとする殊勝な性格ではないので、自分の世界に閉じこもったまま、歩いていた。
それでもまあ、なるべく日陰を選んで歩く吉岡に付き合い、歩くペースだけは調整したが。
ようやく口火を切ったのは、僕がたまに入る路地裏の喫茶店に到着して、そこのテーブルに着いてコーヒーが出てきた後である。
「客が少なくて、薄暗い店でね。かかってるのはクラシックの曲ばかりだし。僕の好みなんだよ」
吉岡も決して嫌いではないらしく、これには微かに頷いた。
「落ち着く店ね」
「気に入ってもらえて、よかった。それで、まずは今後の相談から始める? それとも――」
「桜井亜矢という娘のことから」
吉岡が「忘れてないわよ」と言わんばかりに、僕を見つめた。
「わかったよ。じゃあ、朝の説明な。……最初から話すと長いんだけど、全部聞きたい?」
「余すところなく、全て」
即答かーとげんなりしつつ、僕も覚悟を決めた。
命がけで助けた子の頼みだ。ご要望とあれば、聞かせよう。
僕はコーヒーを一口飲んだ後、当時のことを嫌々思い出した……つまり、三年前のあの事件が起きた直後のことをだ。
桜井亜矢のことを語る前に、僕自身のことを少しばかり話しておく必要がある。
僕の人生において、間違いなく決定的な転機となった事件が起きたのは、中学に入学して間もない、四月の終わり頃のことだった。
ちょうど、今から三年ほど前の話で、僕は当時、亡父と他県に住んでいた。
問題の事件については、そっくり割愛する。
僕は今でも心の整理ができていないし、思い出したくもないからだ。
ただし、疑う余地もなく、あの事件が起きたことによって僕の生活が変化したのも事実で、亜矢との関係もまた、その一つなんだ。
僕と亜矢の初顔合わせは、実は友人達が思うより古い。
最初に顔を合わせたのは、小五のクラス替えの時だったからな。
ただし、小五と小六を通じて同じクラスだったのに、小学校を卒業するまでに、僕らはほとんど会話したことがなかった。
その頃の僕は普通に明るかったし、逆に亜矢はいわゆる暗い子だったしね。
クラスにも、親しい友人なんか全くいなかった。
だから僕らは、まるで空気のような関係だったと言っても過言じゃない……いや、そんな目(吉岡)で見られても、事実そうだったんだって。
ただし亜矢自身について言えば、小学校を卒業する頃には大いに目立っていたし、虐められてもいた。
今でこそ、モデル体型になってて全然想像できないだろうけど、あいつはクラス替えから二年間でどんどん痩せていって、しまいには骨と皮だけになっていたんだ。
元は可愛い子だったのに、小学校を卒業する頃には、もう見る影もなかった。
中学でまた同じクラスになった時には、亜矢は標準体重の半分くらいしかなかったな。小学生時代は、死神女なんてあだ名が付いてたほどで。
そのことと、いつもおどおどしていることが、あの子が虐められた原因だったのかも。
当時は本当に、何かにぶつかったら骨折しそうだった。そういや、小学校の出席率も悪かったけど、案外、本当に怪我して休んでいたのかもしれない。
せっかく中学生になったのに、真新しいセーラー服も、全然ぶかぶかでね。
中学入学時点ではさすがにまだ虐められてはいないけど、既に笑いものにしようとする奴がちらほら出てて、その兆候はもうあった。
――そんな頃、僕に例の事件が起きたのさ。
詳しいことは全部省くけど、お陰で僕は、転校確定となった。
入学したての中学校も、明日からいなくなることが決定したその日のことだ。
義母と一緒に手続きに来た僕は、昼休みの時間帯に、図書館でぼおっと座っていた。
まあ本好きだったから、義母が用事を片付けている間、僕は図書館で過ごそうと思ったんだ。
どこで聞きつけたのか、そこへなぜか亜矢が話にやってきた。
僕らがまともに会話したのは、あの時が初めてだったと断言できる。
彼女は……僕の脇に立って、いきなりこう持ちかけた。
「私を、母から救って頂けませんか」って。
もちろん僕は、今にも倒れそうな顔色の亜矢を見上げて、「なんで僕にそんな頼みごとをするんだ?」と尋ねた。
亜矢の身の上が複雑そうなのは察したけれど、ロクにしゃべったこともない僕にいきなり頼みごとをするなんて、おかしいだろ?
特に親が絡むなら、中坊の同級生よりまず他の身内とか、公(おおやけ)の機関とかを頼るべきだ。
だから、当然の質問だよな。
すると亜矢はこう言ったのさ。
「私は、登校してきた八神様(様付け!)を窓から見かけて、初めて気付いたんです。母じゃなく、八神様こそが、私の本当の上位者なんだと」
上位者? その表現がよくわからなかったんでまた尋ねると、亜矢曰く「上位者とは、自分の人生の全ての指針となる人で、人生を導いてくれる人」のことらしい。
断っておくけど、そんなの精神関連の用語にもない。
依存性パーソナリティー障害って症状ならあるけど、亜矢の場合、そこに分類するのも憚(はばから)れるほど、一切のブレがないんだ。
その時、「なんだそれ、ご主人様みたいなものか?」と僕はヤケクソで訊いたけど、「似ているけど、少し違います」と赤い顔で亜矢は答えた。
「私の人生は、全て八神様のためにあると気付いたんです。だから当然、私のことは、全て八神様が決める……そういうことです」
……説明を聞いても、その時はまだ、さっぱりわからなかった。
まあでも、いかに歪んでいようが、亜矢本人にとっては重い絆(きずな)ってことだろうと、それだけは理解した。
なぜなら僕は、「じゃあ僕が死ねと言えば、桜井は死ぬのか?」と意地の悪いことを訊き返したら、当たり前のように「もちろんです」と即答したから。
彼女は、「今そうすべきですか?」とまで僕に尋ねたほどだ。
狂った気配もなく、表情は完全に正気だった……まあ、病気には違いないだろうけど。
とりあえず、あれで冗談ごとじゃないとわかったな。
さらにあいつは、こうも言ったよ。
「これまでは母が『あたしが、あんたの上位者なのよ!』と私に言い聞かせてきましたが、ずっと納得できず、どこか違和感がありました。母のために私が存在しているとは、全く思えなかったんです。そんな私の態度がいけなかったのか、これまで散々、母に鞭で打たれたり、お食事を抜かれたりしてきましたが、今ようやく、私の違和感の原因がはっきりしました。……八神様、貴方こそ、本当の私の上位者だったんです」
一ヶ月前の僕なら、間違いなく「あ、そう……じゃ、そういうことで」とか答えて、そそくさと逃げたと断言できる。
しかし、あの事件が起きた後の僕は、もう以前の僕とは全然違ってた。
亜矢が大真面目なことだけは理解できたので、しばらく考えて、こう持ちかけたんだ。
「今の話を全て真に受けるわけにはいかないから、まずは僕自身で桜井の母親のことを調べる。その上で、桜井の言う通り、母親が我が子に虐待を繰り返していたとわかれば、ご要望通り、僕がなんとかしてやろう。ただし、一つだけ覚悟してもらう」
僕はその時、亜矢の目をじっと覗き込んだ。
「……僕が問題を解決した時には、多分、その母親は綺麗さっぱり消えることになると思う。それでもいいのか?」
「それで構いません」
亜矢は魅入られたような目つきで僕を見て、即答した。
相変わらず、どこにも狂気の兆候は無かったな。
「母は、私に対して『自分はおまえの上位者である』と嘘をついて、長年私に、ひどいことをし続けたんです。だから、私の世界から消えてしまっても、私は全く気にしません」
「わかったよ、桜井亜矢」
立ち上がった僕は、あの子の目を見て誓った。
「桜井の願いは、間違いなくこの僕が引き受けた」