あの子がいた
文字数 4,403文字
それはいいが――どうやら僕は、吉岡が陶然とした表情で、手首から溢れ出る血を飲んでいくのに見とれるうち、気絶しちまったらしい。
間抜けにもほどがあるってものだ。
三年前にも出血多量で死にそうになったことがあるんだから、覚えていそうなものだが……まあ、当時は気が張っていたからだろう。
さっきみたいに、女の子の幸せそうな表情を見ながら、だくだく血を流していたわけじゃないし。
ともあれ、僕はいつの間にかベンチに横になっていた。
それだけじゃなく、妙に重いと思ったら、なんと吉岡と抱き合うような姿勢になっていて、しかも密着している彼女は、僕の手首を可愛い舌で何度も何度も舐めていた。
どうやら、傷はもう塞がっているらしい。
「……治癒って魔法だろ? 舐めながらするものか?」
「別に、舐めなくても手かざしでいいんだけど、これは感謝の表現のうち……いやかしら?」
「いいぇえー、全く文句ありません」
真面目腐って答えると、吉岡は僕の手首に軽くキスして微笑した。
「すぐに気付いてくれて、よかった」
優しい掠れ声だったが、僕を見る瞳は赤く染まっていた。
ああ、この子はやっぱりヴァンパイアなんだなぁと思う瞬間である。普通、のんびりそんなこと考えている場合じゃないだろうけど。
「ごめんなさいね、わたしが早めに止めるべきだったわ……でも、貴方の血、ものすごく美味しかったんだもの。これほど夢中になるのって、初めてだったから。お母様の言ったことは、本当だったのね」
「なんて言ったの?」
「恥ずかしいから、今はだめ」
吉岡が赤い顔で目を逸らした。
「そのうち……教えてあげる」
まだ少し荒い呼吸のまま、彼女は言った。
おまけに上下に抱き合う形で横たわっているものだから、くっついた彼女の胸の鼓動が激しいのも感じ取れてしまう。
まあ、一番重要な感覚は、制服越しに感じる胸の感触なんだけど。
思わず、ほっそりしたウェストを抱え込むように抱き締めると、吉岡が甘い吐息をついた。
「はぁああ」
「……その掠れた声音はヤバいな。未経験者にはキツい」
「わたしだって未経験者よ」
くすっと笑って答える。
女子にしては身長高いし、大人びた顔なので忘れがちだが、そういやこの子は僕より年下なのである。
僕は、甘い痺れが腰のあたりにきて、ともすれば彼女の肢体をまさぐりそうになるのを堪えるのに、必死だった。実際今だって、彼女の太股にまで手が下りていて、黒いストッキングのサリサリした感触を味わったりしてる。
そもそも、胸に当たってる柔らかい感触がいけない、感触が。女の子の胸は、麻薬みたいなもんだ。
意識を逸らせるつもりで、持ちかけた。
「後で、吉岡の能力を詳しく教えてほしい。それを聞いてから、行動に移そう」
「行動って?」
「まずは住む場所かな……多分だけど、今はまともな場所に住んでないだろ?」
「よくわかったわね」
ぐったりと僕にしがみついていた吉岡が、意外そうに顔を上げた。
「確かに今は、あちこちのホテルを点々としているの」
(そうか、それじゃ大量の衣服なんか置けないよな……当然、下着も)
納得した僕は、名残惜しいが彼女をそっと押しのけて、半身を起こした。
「まあホテルでもいいけど、その場合は長期滞在を視野に入れよう。でも、ちゃんとした場所の方がいいかな。それと、敵がまだいた場合に備えて、武器の確保もいる……最初はこんなところかな」
「わかったわ……全部、八神君に任せる」
ぼおっとした顔で僕を見つめていた吉岡は、幼女のように素直に頷いた。
唇の周囲が血で染まっていなければ、誰もが見とれたことだろう。もちろん、僕はそんなの全然気にしないけど。
いつもよりだいぶ遅くなってしまったが、神社でのやりとりを終えた後、僕らは帰路についた。僕は自宅へ、そして吉岡は現在泊まっているホテルへ。
「正式に住む場所を決めるのなら、八神君の自宅のそばがいいわ」
などと弾んだ声で言ってくれたが、どこまで本気なのかね……。
彼女と別れてから自宅へ帰ると、既に時刻は二時を過ぎていた。
でもまあ、僕の場合、そういうことも時折あるので、家族は別に慌てて通報したりしない。
僕もこっそり鍵を開けて中へ入り、自分の部屋で素早く服を脱いで眠りにつくだけだ。
いつもの日常である――と思ったのだが。
……うとうとしかけてはっと目を見開くと、なぜか暗闇の中に義妹の葉月がぼおっと立っていた。胸にノートを抱いて。
これもまあ……時折あるといえばある。
その手のことに鈍いこともあるが、僕も特に騒がない。
普段のこの子は、僕に懐いているとても可愛い義妹なのだが、なぜか僕のことが絡む時に限って、奇妙な面を見せる時がある。
海の底から、突如として得体の知れない何かが浮かんでくるように。
「どうかしたか?」
僕がそっと尋ねると、葉月はゆっくりと笑顔を広げた。
かなり無理しているように見えた。
「おにいちゃんが遅かったから、少し心配で。それと、交換日記渡そうと思って」
「ああ、今度は僕の番だったな」
血の繋がらない兄妹同士で、交換日記……当然、僕の趣味じゃない。
以前、どうせすぐ飽きるだろうと思って葉月の「おねがい」を快諾したけど、三年経つ今でも、葉月は飽きていないらしい。
夜中の二時過ぎに、義兄の部屋に日記持ってくるほどに。
「机の上に置いといてくれ」
「うん」
葉月は素直にノートを置き、出て行こうとした――が。
ふいに足早に戻ってくると、いきなり僕の上にぶわっと顔を寄せてきた。ホラー映画の脅かし場面のごとく。
僕が黙って見守っていると、可愛い小鼻をすんすん言わせ、呟く。
「……女の人の香りがする」
「ああ、クラスメイトと会ってたからな」
僕が最低限の情報を明かすと、「好きなの?」と低い声で尋ねた。
そうストレートに訊かれるとわからないな……好意はあるが、僕の好意は好きと呼んでいいものかどうか。
「少なくとも、葉月は好きだな」
小さな手を握ってやると、張り詰めていたものが抜けたような感じで、葉月がため息をついた。
「はぁあああ」
さっきの吉岡のため息と似ていた気がする。
「もうお休み……明日も学校なんだから」
「うん」
ようやく笑顔になった葉月が、こくりと頷いた。
「明日の朝食、なにか食べたいものある?」
「明日香さん(義母)、また取材なのか?」
「そうなの。数日帰らないって」
「そうか……じゃあ、オーソドックスにトーストと目玉焼きで」
「はぁい」
とてとてと部屋の外へ出ようとして、出口で振り向く。
「あたし、少し胸が大きくなったのよ」
なんだか嬉しそうに報告してくれた。
――なんだそれ? どんな返事を期待しているんだ、僕に。じゃあ次は女の子の日だなっとでも答えればいいのか?
戸惑ううちに、葉月は「おやすみなさい」と挨拶して、そのまま部屋を出て行った。
……子供といえども、女の子の気持ちはわからん。
僕は息を吐いて、目を閉じた。
翌朝、僕は意識していつもの時間から大きくズレないように調整し、登校した。
人殺しなんて大胆なことした後は、行動パターンを変えない方がいい。
あいにく、「朝に弱くて」と雑談の中で愚痴っていた吉岡は、まだ来ていなかったが。いかにも低血圧そうな感じだしヴァンパイアだし、ある程度はやむを得ないだろう。
……まだ正式な席替えはしていないので、僕は窓側の空いた席に座った。
すると、後から教室に入ってきた友人の谷川が僕を見つけて片手を上げ、隣にどさっと座った。
「おー、八神はいつもはえーな」
中学以来の腐れ縁のせいか、明るく声かけなどしてくれた。
「いやぁ、単におまえが遅いだけだろうと。また再放送の古いアニメでも見てたかー?」
実際、もう八時十五分になるところだ。
「はははっ、そっちは録画さ。遅いってのは、HRのチャイムが鳴った後に入ってきた場合だろっ。俺は普通だ、普通」
「普通の高校生男子は、朝からサリーちゃんの録画なんかしないって」
……こういうくだらないやりとりができるのは、僕が意識して三年前以前の自分を演じているからだ。
その頃は、僕だって年齢相応で、今ほど壊れていなかった。
今の素のままだと、暗すぎてドン引きされる恐れがある。
そうすると、三者会談などで呼ばれた明日香さん(義母)なんかが、「普段の八神君は誰とも会話しなくて」なんて担任から打ち明けられて、どっと心配する可能性があるからな。
こう見えて、僕は身内には気を遣う方なのだ。
義母の明日香さんは、うちの呪われた亡父とは籍を入れる前だったし、奴が死んでからは、あいつの連れ子である僕とは、もうなんの縁も責任もないはずなのだ。
それでも、未だに生活を支えてくれている彼女には、それくらいの負い目がある。
「ところでさ、昨日訊こうと思ってたけど、おまえ、あの妖精みたいな美少女と、どういう関係なんだ?」
谷川が、興味津々の目つきで身を乗り出す。
……なるほど、それで隣に来たか。
「いや、別に。入学前にちょっと知り合ったくらいの関係かな」
「ちょっとねぇ……おまえのちょっとは最終段階に近い気がするな……あの時の彼女の目つきを見れば」
「気のせいだろ? 明るく健全な友好関係だよ」
昨晩、ストッキング越しとはいえ、吉岡の太股を触りまくった件はおくびにも出さない。
「けっ、嘘つけー」
どのみち、信じてもらえなかったが。
「ま、桜井には気をつけろよ。彼女、だいぶ気にしてるようだったから」
「は、桜井? 桜井って桜井亜矢?」
「……他に桜井って名の知り合いがいるのか、おまえ?」
呆れたような目つきで見られた。
「中学の三年間、ずっと同じクラスだったんだろ? 忘れるなよ」
「いや、でも進学したし――て、まさか桜井もこの高校?」
「……は?」
呆れたような目つきが、度し難い馬鹿を見るような目つきへとレベルアップした。
「同じ高校どころの騒ぎじゃない。昨日もいただろうが。後ろを見ろよ」
焦って振り向くと、最後尾の席にいた子と、ばっちり目が合った。
少女漫画みたいな大きな瞳をした、桜井亜矢その人である。
前は後ろで髪をまとめていたのに、今はストレートロングの髪型に変化している。
……それで、気付かなかったのか。
彼女は――僕を見つめて柔らかく微笑み、小首を傾げた。