第一章 人を殺すために、最も重要なこと
文字数 5,243文字
その夜、僕は「散歩に行く」と称して、早めに家を出た。
実は僕は、しょっちゅう夜中の散歩に行く癖があり、家族には特に怪しまれない。
ただ、例によって義妹の葉月が玄関口まで走ってきて、「あたしもいっしょにいきたい!」とダダをこねただけだ。
薄いピンク色のパジャマ姿のところを見ると、わざわざベッドから飛び出してきたらしい。
この子もだいぶ胸が膨らんできたなあ、そろそろブラをしてくれないと気まずいんだけど?などと思う瞬間である。
「昼間の散歩の時な」
中学生になったばかりの葉月の頭を撫で、僕は辛抱強く言い聞かせる。
「おにいちゃん、昼間は全然お散歩しないじゃない!」
撫でられてくすぐったそうな顔付きながら、葉月が抗議する。
今は亡き父が、生前に再婚したお陰で現在のややこしい状況があるわけだが。
一緒に暮らし始めてまだ三年に過ぎないこの子が、どうして僕にこんなに懐いてくれるのか、さっぱり理解できない。
「もう二十三時になるところだろ。葉月は駄目だよ」
言いつつ、少しズレたヘアバンドを直してやる。
「あたしも、もう中学生になったのにー」
可愛い唇を尖らせたが、僕は笑って言ってやった。
「高校生になったらな」
「本当!? 高校生になったら、深夜散歩に連れて行ってくれる!?」
「いや……」
迂闊なことを言うものではなかった。
「ていうか、なんで散歩なんて老人臭い趣味に付き合いたがるのさ?」
素早く話を変えてやると、なぜか葉月は目を逸らせた。
「それは……」
「とにかく、行ってくるよ」
「でも、ニュースで、交番で拳銃盗まれたって言ってるよ! 危ないんだもんっ」
引き留めるための嘘でもなさそうだが、僕は気にせずにドアを開けた。
「大丈夫だよ。日本で一般市民が撃たれる可能性なんて、笑えるほど少ない確率だし」
「あーーーっ」
背中の方で抗議の声が聞こえたが、僕は聞こえない振りをして家を出た。
うちの街にあるパークホテルの正式名称は、「霧が丘パークホテル」という。
ちなみに、うちの高校もよく間違えられるが、某県にある同名のホテルとはなんの関係もない。
そもそも、この街にあるパークホテルは、駅から徒歩二十分という微妙すぎる距離にあり、普段から客入りがよくない印象があった。
自宅から半時間もかけて歩き、久しぶりに裏通りにあるそのホテル前に来ると、なんともう閉鎖されていた。
知らぬ間に倒産していたらしい。
フロントがある一階正面は、シャッターが下りていて入れない。
あちこち見て回ると、ホテル横の壁面に通用口みたいな小さな鉄扉があり、試しにドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった……というか、そもそも鍵ごと破壊されている感じだ。
(これは……おそらく吉岡だろうなぁ)
どうも解錠部分が枠ごとねじれて吹き飛んだようで、どうやればこんな破壊の仕方ができるのか、謎である。
機械警備のシステムが無いことを確かめた上で、僕はホテル内に滑り込む。
ちょうど、目の前が従業員用の廊下になっていて、突き当たりにこれも専用の階段があった。懐中電灯を持参してきたから見えるものの、そうでなければ、鼻を摘ままれてもわからない暗闇だった。
……そして、足元にべったりと血の跡があった。
「うわー」
僕は乾いた声を出すと、急いでポケットからハンカチを出し、さっき触ったドアノブを丁寧に拭っておいた。ついでに、廊下はまだ全然綺麗に見えたが、一応、靴もそこで脱いでおく。
血の跡があったからといって、死体もあるとは限らないが……しかし、鮮血の帯みたいなのが廊下にあって、それが廊下から階段へ続いているとなれば、用心は必要だろう。
死体を引きずった跡にしか見えないし、犯人だと後で誤解されてはたまらない。
あんまりいい予感はしなかったが、約束は約束である。
僕は肩をすくめ、血の跡を踏まないように用心し、さらに先へ進む。
最上階の五階を越え、さらに屋上への階段を上がった。
赤い帯みたいな跡はかなり薄れていたが、まだしっかり残っている。この出血量が本当なら、誰であろうと、死んでいるだろう。
……願わくば、僕が二人目の死体にならないといいのだけど。
薄く開いていた屋上の鉄扉を足先で広く開け、僕は屋上へ出た。
反対側の手すりの手前に、セーラー服姿の髪の長い女の子がいた。
思ったとおり、振り向いたのは吉岡月夜その人である。
月夜と書いてルナという難儀な読み方をする、年下のくせに同級生になった子だ。
「八神君! 早いわねっ」
吉岡が優しい笑顔を見せて、両手を広げた。
あたかも、僕を胸に抱き締めるかのように。
……その足元に死体が転がっていなければ、そして、なぜか右手に拳銃なんぞを持っていなければ、甘い予感がしたかもしれない。
ちなみに、僕の脇を通る血の跡は、ちょうどその死体へと続いていた。
(一般市民が撃たれる可能性が、今この瞬間に爆上げしたな)
心の中で、有益な忠告をしてくれた義妹に謝罪しつつも、僕はそのまま屋上へ入った。
吉岡が本当に僕を殺す気なら、今から逃げても手遅れのような気がするし――それに、あの銃が僕を殺すためのものと決まったわけでもない。
既に足元の死体に使った後かもしれない。
それでも念のため、近付いた僕は彼女にお願いしておいた。
「もしもその銃で僕を撃つ気なら、ここかここで頼むよ」
人差し指で自分の頭をとんとんと叩き、次に心臓部分をセーターの上から叩く。
「どうせ死ぬなら、痛みがない方が嬉しい」
「……えっ?」
吉岡は「今気付いたわ」みたいな表情で右手の銃を見やり、慌てて手を下ろした。
「ああ、これは違うの。制服を着た……この国の治安維持官みたいな人から、倒れてるそいつが奪ったらしいわ。前に無くしたハンターガンの代わりかしらね? どのみち、撃たれる前にわたしが始末したけど。本来は、生け捕りにする予定だったのに」
言い訳を聞きつつ……僕は笑いが込み上げてくるのを堪えた。
疑り深い僕は、どうやらずっと勘違いしていたらしい。
警官を、「治安維持官」などと呼ぶ日本人は、まずいない。となると、吉岡があの地下廃墟で語ってくれた身の上話は、真実なのかもしれない。
「じゃあ、その武器を見せてもらっていいかな?」
死体を避けて彼女の前に立つと、吉岡は笑顔で渡してくれた。
「どうぞ……火薬式みたいだけど、わたしにとっては、警戒するほどの武器じゃなかったわ。欲しかったら、八神君にあげる」
「いや、もらっても困るんだけどね」
上の空で銃をあちこち調べる。装弾数五発。まだ一発も撃たれていない。
銃口を嗅いでみたけど、特になにも臭わなかった。
「となると、前に聞いた話からして、こいつはハンターとやらかな?」
僕は、夜空を仰いだまま転がっている、長身の死体を見下ろした。
裾の長い、恐ろしく古ぼけた黒コート姿だったが、髪は金髪で日本人には見えない。まるで猛獣の爪で抉ったかのように、数本の深い傷が肩口にあった。
「そう。昨日、やっとここに潜んでいるのを見つけたところだったの。運が良ければ、こいつが最後の一人かも」
吉岡は、目を細めて僕を見た。
「前に話したことは、かなり信じ難い話だったかもしれないから、こいつを見せて嘘じゃないとわかってもらうつもりだったのよ。だから、貴方が来る前に拘束するつもりだったけど……結局、殺すしかなかったわ」
「そういえば、追っ手がいるって言ってたねー。その説明は改めてしてもらうとして、今はちょっと待って」
僕は顔をしかめてしゃがみ込もうとした。
なぜなら、問題のハンター氏の右手が、まだコートの懐にしっかり入ったままなのに気付き、不審を覚えてたからである。
――ここで急に話は変わるが。
人を殺すために、一番大切なことはなにか、わかるだろうか?
それは殺人の技量でもなければ、武器の精度でもない。一番大事なのは、殺す必要がある時に、一切の迷いを見せないことだと僕は思っている。
相手が本気だったら、一瞬の躊躇が即座に死に繋がるだろうから。
ガキのくせに、僕は日頃から「多分、僕の場合は必要な時が来れば迷わないだろうな」と思っていた。
正確には、僕がそう思うようになったのは、三年前からだけど。
しかし、どうやら僕の覚悟が本当に試される時が来たらしい。
なぜなら、そいつがいきなりかっと目を見開き、懐からゴツいナイフを出して飛び起きたからだ。
死んだ振りをしてたそいつは、敵は吉岡のみだと思っているのか、ナイフを手に迷わず彼女に襲い掛かろうとした。
お陰で僕の眼前には、そいつの無駄に広い背中が丸見えである。
僕は一切、躊躇しなかった。いきなり銃を持ち上げ、そいつの背中に連続で発砲した――幸い、外す距離ではなかった。
タフな男もさすがに呻いて動きを止めたが、辛うじて僕を振り向いて睨みつけた。
「貴様……わかっているのか……こいつは……化け物だぞ?」
両足がガクガク震えているし、囁くくらいが関の山で、もはや動く気力はないらしい。
気でも狂ったか、と言いたそうな目つきだった。
「化け物じゃなくて、ヴァンパイアだろ?」
銃を構えたままで、僕は言い返す。
「同じ……ことだ……馬鹿め」
軋むような声と共に、男の手からぶっそうなナイフが滑り落ちる。
「人間のくせに……どうなっても知らん――」
最後の力を振り絞って言いかけたが、そこまでだった。
「――邪魔っ!」
展開の早さに呆然としていた吉岡が我に返り、男を片手で押しのけたのだ。
本人が剛力のせいか、痩身の男は軽々と吹っ飛び、割と遠くに倒れた。もはや動かない……万一、まだ生きているとしても、もう虫の息だろう。
そもそも撃たれた時点で勝負はついていて、あそこで動けるくらいなら、僕を振り向く手間などかけなかったはずだ。
そして吉岡当人は、もはやハンターなど見向きもせず、初めて見せる感激の表情で僕の眼前に立っていた。今にも胸に飛び込んできそうに見える。
この時ばかりは、かなり普通の女の子に見えた。
「ありがとう! とても意外で……そして、とても嬉しかったわっ」
「どう致しまして。吉岡のためなら、軽いもんさ」
わざと調子のいいことを述べると、僕は拳銃をベルトの背中側に挟み込む。
セーターで隠せば、まあ大丈夫だろう。
それから屋上の手すりまで行き、ささっと周囲を見たが、暗い街はしんと静まったままだった。そもそもこの近辺はビジネス街の外れにあたるので、住人自体が少ないお陰だろう。
発砲したのはまずかったが、聞いた瞬間に「これは銃声だっ」と思う日本人は、実は少ないはずだ。おまわりさん御用達であるニューナンブの銃声は、予想よりは小さかったし。
とはいえ、とっとと逃げた方がいいに決まっている。
僕はぼおっとこちらを見たままの吉岡に、「そろそろ引き上げないか?」と声をかけた。後はあの死体だが――
「あのね、や、八神君」
死体のそばに駆けつけた僕に、ついてきた吉岡が言う。
「あの……もしもの話だけど」
いつも冷静な吉岡が、頬を赤くしている。
「もしもわたしを守ってくれるなら……今後わたしは、貴方のものになるわ」
夜空に輝く満月をバックに、彼女は決然と言った。
冗談ごとではなく、彼女にとってはとても大事なことを持ちかけているのだと、さすがの僕にも理解できた。
僕達のそばには、今度こそ死体になったらしいハンターが横たわっていたが、僕も彼女も、多分あまり気にしてなかった。
「……喜んで引き受ける」
手を差し伸べると、彼女はゆっくりと近づき、僕の腕に中に抱かれた。
長いまつげを伏せて、そっと囁く。
「契約は成立したわ……今からわたしは、貴方のもの」
彼女の髪の香りが濃く立ちこめ、僕は思わず目を閉じた。それと、抗議する気はさらさらないが、恐るべきことに、この子の制服の下はノーブラだった。
抱いた時に感じた胸の感触でわかる。
――次の瞬間、腕の中で吉岡が「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
ノーブラの件かと思ったが、違った。
目を開けた僕は、脇に転がった死体が少しずつ薄れていくのを見てしまい、自分も唸り声を上げた。
今や、死体を通して屋上のコンクリートが見えている。
僕らが見守る中、ハンターとやらの死体は瞬く間に全て消えてしまった……自分が流した血ごと、綺麗さっぱり。