第三章 敵との遭遇
文字数 5,040文字
――話は数時間前に戻る。
霧が丘高校の放課後、桜井亜矢はいつも通り、八神守が校舎を出てから十分に時間を置いて、席を立った。
これは彼女のみが信じるルールのためで、自分の上位者であり導き手でもある「守さま」より先に帰るなど、許されることではないからだ。
そこで当然、彼女が帰宅するのはいつも守の後となる。
三年前に八神守に願いを叶えてもらって以来、彼が休みの日は別として、一日たりともそのルールを違えたことはない。
ただし亜矢は、そのためにわざわざ校門を出るまで守を監視する必要はなかった。
守が遠く離れると、なぜか彼女にはそれがはっきりわかるからだ。
それどころか、おおざっぱではあるが、守の現在位置も見当がつく気がしている。おそらく本気で探す気になれば、守がどこにいようと見つけられる自信だってある。
これは、亜矢にとっては特に不思議な現象でも超能力でもなく、「あの方がどこにいるかわからないようでは、むしろそっちの方が不思議だわ」と思っている。
……ともあれ、その絶対的なルールを守っていたが故に、桜井亜矢はルナや守より先に、いわゆる「敵」と遭遇することになる。
守が校門を出てからしばらく待った後、亜矢はようやく席を立って廊下に出た。
実は最近、ルールを別にしても、遅めの帰宅には大いなるメリットがある。
まだデビュー公演前なのに、既にプロダクションのHPに亜矢のプロフィール入り写真――それもアイドルらしくドレスアップした写真が載ったせいか、早くも校内でそのことが知られつつあるのだ。
困ったことに、わざわざ教室まで覗きに来る生徒もちらほら出始めているほど。
守と自分のこと以外、関心事が全くないに等しい彼女としては、実にありがた迷惑な話である。それもあって、人が少なくなってから帰宅するのは、彼女にとってもメリットが多い。
そしてこの日は特に、遅めに校門を出て正解だった。
(あら?)
亜矢は、校門の影に隠れるようにして、陰気な痩身の男が立っているのに気付いた。
いつもなら特に気にすることもないが、この男は確か、守さまの気配が校門を出た後、入れ替わるように登場した人ではないか?
その時にちょうど、窓から校門の方を眺めていたので、覚えているのだ。
しかも頭にソフト帽を被っているのでわかりにくいが、どうも日本人ではないような気がする。髪が金髪だからだ。
日本人ではないと言えば、最近守さまに接近してきた吉岡さんも、どう見ても生粋(きっすい)の日本人とは思えない。だからという訳ではないが、なんとなく勘が働き、亜矢はわざとその男の真横を通った。
男の方は特に反応せず、亜矢の方をチラッと見たのみで、すぐに校門の方へ注意を戻した。あたかも、そこを見張っているような態度で。
(誰か目当ての人を待っている……のかな?)
予想した瞬間、亜矢は迷わず男に声をかけていた。
「ちょっとすみません」
「――っ!」
明らかに大きく息を吸い込んでから、ソフト帽の男は亜矢を振り向いた。
瞳は碧眼で、思った通り日本人ではない。
「……なにか?」
用心深い声音で問い返された亜矢は、意識して笑顔を作り、逆に訊き返す。
「いえ、誰かをお捜しかなとふと思ったので。もし生徒さんなら、あたしが知っているかもしれませんよ」
「いや――」
男が首を振りかけたものの、亜矢はわざと続けた。
「もう生徒の半分以上は帰っちゃいましたし、なにかヒントがあるなら、教えてください。本当にあたしが知っているかもしれませんし」
「そう……ですか」
男は少し考え、思い切ったように顔を上げた。
「では、この少女を見たことがお有りか? この学校に在籍しているとは限りませんが」
出された写真は小さく、しかもあまり見たこともないような形式だった。なにしろ、ぱっと見ただけで奥行きまで感じられる写真など、亜矢は見たことも聞いたことない。
ただ……そこに映っている少女には、明らかに見覚えがある。
……遠くから写した横顔ではあるが、間違いなく、あの吉岡月夜だろう。
これがもし、吉岡だけの話なら別だが、今の彼女には、おそらく守も関わっている。
となると、迂闊に返事をするのは危険だし、このままこの男を帰すのも危険のはずだ。なぜなら、彼女を通して、守にもなんらかの被害が及ぶかもしれないからだ。
少なくとも、校門の脇で人捜しをするような男に、健全な用事があるとは思えない。
――という、実に彼女らしい考え方で一瞬でそこまで結論付け、亜矢はわざとらしく首を傾げた。
「うちの学校じゃないですけど、この人はつい昨日、見かけました」
「それは、まことですかっ」
独特の言い回しで、彼は身を乗り出す。
いきなり碧眼がぎらりと光ったのを見ても、吉岡を探す意図に黒いものを感じずにはいられない。
まあ、亜矢は吉岡については特になんの興味もない――。
どころか、守と一緒にいるのを見ると、亜矢には珍しく心が騒ぐのだが、とにかくその安否自体は、亜矢の優先事項ではない。
なにを置いても、まず守のことである。
そして、どうもこの男にはきな臭いものを感じる。結局吉岡だけではなく、回り回って守にも被害が及びそうな、そんな予感がするのだ。
だから亜矢は、素知らぬ振りをして、頷いた。
「ええ、確かに見かけました。だって、こんな目立つ人、あまりいませんし」
「ふむ。して、どこで見かけましたか?」
「今、思い出そうとしているんですが……なかなか」
額に手を当てて、亜矢は必死で思い出そうとする演技をした。
あわよくば彼の連絡先を尋ね、「思い出したら連絡します」と持っていくつもりだった。連絡先さえわかれば、後は一旦別れてから、守に報告すればいい――はずだったが。
しかし、さすがに奇妙な写真を持つだけあって、彼の言い分はふるっていた。
「失礼だが、私と一緒に来て頂けませんか? ここは人目に付きすぎるので、もう少し人気のない場所へ……記憶を取り戻す方法なら、私が心得ています」
……これはなかなか、普通人の返事の範疇を越えているのではないだろうか?
自分のことは棚に上げ、亜矢は素早く考えた。
相手が返事を待っているようなので、時間稼ぎのために「魔法とかですか、もしかして?」などと笑顔で言ってみる。
すると彼は驚いたように目を瞬き、こう言った。
「この世界には、魔法など存在しないと思っていましたが?」
「ああ……いえ、そうとも限りませんが」
魔法は知らないが奇跡は存在するし、奇跡の固まりのような方だって存在する。ただし、「普通の人」は、そうは考えまい。
つまり、これはいよいよ怪しい。
危険だけど、この際は彼が望むように人目のない場所へ移動しましょうか……と亜矢が思った途端、男の方から馬脚を現した。
つまり、着崩したスーツの懐から、見慣れない銃器を出して亜矢に突きつけた。
「申し訳ない……他の通行人の目につかないよう、移動してください」
「まあ」
亜矢は大いに慌てた様子を見せつつ、彼の指示に従って歩き始めた。わざとらしく震えて見せると、横を歩く彼がひどく申し訳なさそうにまた言った。
「貴女の記憶を少し覗くだけです。我々が探す相手の記憶さえ見れば、後は解放しますから」
「の、覗くって……どこでっ」
内心では落ち着き払っていたが、亜矢はあえて怯えきったように尋ねた。
「……近くの教会までです。縁があって、今はそこにお邪魔してますので」
では、そこに着いたら行動を起こしましょう。
亜矢は素早く決断した。
だが、あいにくその判断は間違いだった。男が自分達の背後を見て、驚き顔を見せたかと思うと、亜矢の耳にひどく短い言葉が聞こえた。
まるで詠唱にも似たセリフを聞いた刹那、彼女はその場で意識を失ってしまった。
次に目覚めた時には、亜矢は木製の長椅子に仰向けに寝かされていた。
薬品などで眠らされたのではない証拠に、頭はすっきりしていて、寝覚めは悪くない……しかも、特に縛られているような様子もなかった。
呆れたことに、身体検査もされていないらしい。
スマートフォンの入った鞄こそ近くにないものの、制服のポケットにあった中身はそのままのようだ。
(じゃあ、まだチャンスはあるはず)
あえて起き上がったりせず、そのままこっそり薄目を開けて周囲を見渡したところ、ここはどこかの教会の中らしい。
となると、亜矢が寝かされているのは、祭壇を前にした信者用の長椅子だろう。
薄暗いのは、あれからかなり時間が経った証拠に思える。
そこで誰かの靴音が近付き、亜矢は急いで目を閉じた。
今の状態なら、寝たふりをしていた方が正解の気がする。
亜矢のいる長椅子の脇で止まった誰かは、しばらく亜矢の様子を見ていたようだが、やがてため息をついて祭壇の方へ戻っていった。
亜矢がまた薄目を開けたところ、見覚えのあるスーツの背中だったので、自分が話しかけた青年だろうと思われる。
しかし、そこで祭壇の方から別人の声がした。
「どうかね?」
「いえ、まだ起きてませんね……ぐっすり寝込んだままです」
「そろそろ目覚めると思ったのだが」
「この世界の魔法のことは私にはわかりませんが、ダメージが残るような術式じゃないでしょうね?」
あの青年の声が不安そうに言う。
「まさか。君達の世界とは根本から違う神を信仰しているとはいえ、私とて神父だよ。無益な殺生はしないさ。単純に眠っているだけのはずだ。だいたい、君だって覚悟はあるのだろ? 例えばの話だが、あの少女がもしルナとやらの手先だっとしたらどうだ?」
「そりゃ殺しますよ!」
今度は迷いの欠片もない声音で青年が即答する。
「本物の使徒であれ、単にあいつに操られた手駒であれ、逃げたヴァンパイアの味方をする者は、等しく殲滅します」
(ヴァンパイア?)
亜矢は不思議と嘘だとは思わなかった。
守の存在を思えば、ヴァンパイアごときは驚くほどでもない。
「それを聞いて安心した。……実は彼女を問答無用で眠らせたのには、ちゃんと理由がある」
「まさか、彼女が本当に使徒だというのでは」
「いや、それは君の魔法を待つ他はないが……あの学校が問題なのだよ。君が調査に行くと聞いた時に、既に嫌な予感がした。あの学校には、私が知る限りで最悪にして最強の怪物が在籍しているのさ……しかも、まだ入学したばかりだ」
「逃げたヴァンパイアと関係あるとでも?」
「大いにあるね。もし君が狙うヴァンパイアがあそこに潜んでいるなら、目も当てられない。あの化け物はそういうのを嗅ぎつけるのが上手だし、大抵の悪は、あいつに魅せられていつの間にか奴の側についてしまうんだよ」
実に忌々しそうに神父と名乗った男が吐き捨てた。
(化け物ですって!)
神父の言葉ではないが、亜矢こそ嫌な予感がした。
「だからといって、こっそり後をつけないで頂きたい」
青年の気を悪くしたような声が言う。
あまり神父の言い分を信じていないらしい。
「いくら協力関係にあるとはいえ、僕の仲間だって、きっといい気はしますまい」
「君が黙っていれば、問題ないさ。それより、私は買い出しに行こう。途中で目覚める前に、彼女は縛っておきたまえよ?」
「彼女はまだ少女ですよ……平気でしょう。目覚めれば、僕が素早く記憶を読みます」
「……好きにしたまえ。万一の時に、痛い目を見るのは君だからね」
そう言い捨てると、足音が遠ざかり、どこかのドアを開けて出て行った気配がした。おそらく、神父とやらが買い出しに行ったのだろう。
この教会は彼のものではないようだ。
そして――入れ替わりに、またさっきの靴音がこちらへ近付いてきた。
亜矢はスカートのポケットに手を入れ、タイミングを推し量った。
まだ今の会話の内容は不明な点が多いが、いずれにせよ、同級生の吉岡と関係あるのは間違いない。ならば、守とも無関係ではないだろう。無視はできない。
(来たっ)