第四章 ヴァンパイアのための世界を
文字数 6,951文字
いろいろあった日だったが、義妹と帰宅してからは特になにも起きず、中年の遺棄死体は新聞の片隅に載った程度で、ろくにニュースにもならなかった。
幸か不幸か、飛行機事故のニュースと重なったということもあるが、そもそも警察は、中身を抜かれた財布を現場に見つけ、強盗の線で捜査しているらしい。
……財布の中身を抜いたのは僕であり、今のところはほぼ狙い通りだった。
そして特に義妹の殺人がバレる気配もなく、五月も半ばに入った頃。
僕は一定数の使徒を増やしたので、一度、全員をルナに引き合わせることにした。
「わたしが会うの?」
うちの近所のマンションに引っ越してきたルナを訪ねて告げると、本人は露骨に乗り気薄の表情を見せた。
「八神君がボスとして、わたしを含めて皆を動かしてくれてもいいのよ?」
「いやいや、ボスはあくまでルナだし」
僕は苦笑した。
だいたい、僕の力は一応置いて、一対一でやり合うなら、僕などルナの敵ではない。
「それに、マスターの顔を見なくても強制支配は働くにしても、一応顔会わせくらいはした方がいい。ルナは人間の上位種で、自分達のマスターなんだと、骨の髄まで認知させないと」
ついでに十畳以上あるリビングをぐるっと見渡し、教えてあげた。
「この部屋を格安で紹介してくれた不動産関係者も、使徒の一人だしね」
「……そうだったわね」
ルナを小さく肩をすくめ、僕の手を取った。
「それくらいは、支配者たるわたし達の責任かもしれないわね」
支配者はルナだけだと思うのだが、どういうわけだか彼女は、僕を他の人間と同じとは思っていないようだ。下手をすると、自分より僕の方が格上だと思っている節がある。
不思議なことではあるが。
僕はあえて否定せず、代わりに別の提案をした。
「なら、そろそろ例の件、試してみない?」
「吸血……のこと?」
僕は小さく頷く。
ハイブリッドとはいえ、まぎれもないヴァンパイアであるルナが直接牙を立てて吸血すれば、それはもう、普通は使徒になってしまう。
今回、僕がたまたま、輸血によるヴァンパイア因子の感染なんて方法を見つけたものの、古来よりのやり方の方が、より確実だろう。
そして僕とルナは双方揃って、「多分、ルナが僕を吸血しても、僕の方は使徒化しない」と確信していた。
不死身の超人が生まれるだけで、別に使徒にはならないだろうと。
ルナは本人のみが理解する理由でそう信じているらしいが、僕も同意見というわけだ。まあ、なぜか「自分は使徒にならない気がする」と思っているに過ぎないが、僕の場合、そう思っていること自体が重要だ。
「別に不死身になりたいわけじゃない。使徒化せずに吸血できるとわかれば、僕が安定してルナに血を分けてあげられるし、集めてくる方法も広がるんじゃないかな」
「……ああ、八神君っ」
外国映画の貴婦人のように、ルナは感激の表情で自ら僕の胸に飛び込んで来た。
「この世界に迷い込んでから、わたしがどれだけ貴方に感謝しているか、わかる?」
「わかるつもりだけど、気にしなくていいよ。僕が好きでやってることだから。……じゃあ、今から始める?」
「……そうね、わたしはいいわよ。ちょうど、八神君の血を切望していたところ」
「だろうねぇ」
ヴァンパイアは普通の食事もできるらしい。
味だって感じる。しかし……人間の鮮血の甘美さに勝る食事は、この世に存在しないそうな。
一度知ってしまうと、麻薬に等しいのだとか。
「特に、八神君の血はもの凄く美味しいの」
口を半開きにして、ルナが甘い吐息をつく。そう物欲しそうに見られると、自分がテーブルに載ったステーキになったような気がするな。
あと、今やルナの瞳が真紅に染まっている。
僕は見とれているけど、気弱な者なら、腰が抜けて震え出すような迫力があった。
「僕はソファーに座るから、ルナは膝の上に正面から座る感じで……多分、見た感じはひどくえっちだけど、それくらいの役得があってもいいだろ?」
「いいけど、そういう言い方しないで……意識するから」
さっさとソファーに座った僕に、ルナが唇を尖らせる。
しかし機嫌が悪化したわけではなく、切れ長の目でとっくりと僕を見つめた。
「……他になにかご注文は?」
「痛みを紛らわせるために、セーラー服の上だけ脱いでって言ったら、怒る? 噛みつかれてる間、ルナの胸を見ていることにする」
「またまた……痛みなんて、全然平気なくせに」
くすっと笑ったルナは、しかし部屋の明度を落としたかと思うと、本当に上衣を脱いでくれた。
半分冗談だったんだが、今更そんなこと言えない。
さすがに言葉もなくルナを……というか、正確にはルナの胸を見つめるうちに、彼女はさっさと両足をまたぐようにして膝をつき、そのままそっと僕の膝の上に座った。
仕上げに、あたかも映画の熱烈キスシーンのごとく、両腕を僕の首の後ろに回し、ゆるゆると顔を近づけてきた。
ここまでの至近距離で、ルナの顔を見たことはなかった。
これだけ近くから見ると、大抵どんな美人でもなにかしら黒子や小さな染みやらニキビやらが見つかるものだが、驚いたことにこの子は、間近で見ても完璧に真っ白な肌だった。
しかも、なまめかしく肌そのものがうっすらと輝いているようにすら見える……まあそれは、染み一つない雪肌のお陰だろうけど。
さすが、太陽光を嫌うヴァンパイア少女!
――などと、長々と考え込んでいたのは、ルナの胸が僕の胸に押しつけられて、半端なく彼女の弾力を感じていたからだ。
これはちょっと、冷静に観察するのは難しいな。
年齢の割に、いろんな意味で大人に近い容姿だし。
「どうかしら……これでいい?」
僕の耳元に囁くようにして、彼女の掠れた声がした。
やっぱりルナも少し緊張しているらしい。
「うん。明るいとなおいいけど、感触は伝わるから、差し引き大幅プラスだよ……遠慮なく、がぶっとやっちゃって」
「わかったわ……わたしは、八神君は使徒にはならない自信があるから、気を楽にしてね。そんなこと言わなくても、八神君なら平気でしょうけど」
「平気――でもないな」
僕は苦笑した。
「吸血の件はともかく、半裸のルナが膝の上に載っていると、押し倒したくなる」
「――別に構わないのよ、わたしの方は」
刹那の間を置き、またルナが囁く。
今や頬と頬をくっつけているので顔は見えないが、彼女の甘い吐息を感じてしまう。
「万一、赤ちゃんができたら、がんばって育てる覚悟もあるから」
「わー」
いや、その覚悟は考えなかったな、そういや。
まあ、ルナの子供ならきっと可愛いだろうけど。
「まあほら、僕の理性が健在なうちに、吸血の方をよろしく」
「……上手く逃げたわね」
くすっと笑い、ルナが僕の首筋に唇を寄せ、今度こそ思い切って噛んできた。
牙が突き立つ感触があり、微かな痛みがあったが……ルナには治癒の能力もあるせいか、すぐにその痛みも薄れていく。
おそらくヴァンパイア少女としては、品の良い吸血の仕方だったろうと思う。
間違っても、ラーメン屋で意地汚くラーメン啜る、そこらのおっさんのようなやり方ではない……しかし、控えめに吸血中のルナの剥き出しの肩が震え出し、鼻息が荒くなっていくのを感じた。
これは、前に僕がカッターで自分の皮膚を裂いて、血を与えた時と同じだ。
いや、今回はあの時にも増して、ルナが感極まっているらしい。時折、「ああっ」とか「ううっ」とか「やが……み……くんっ」とか言うような呻き声やらセリフやらが入り交じり、白い肌がほんのりと熱を帯びて朱に染まっていく。
やたらと震えているし、体勢的に顔は全然見えないけど、今の状態でルナの胸を弄ったりしたら、この子の下着がエラいことに(中略)なんて、くらくらする頭で下品なことを考えたほどだ。
ただ、これも以前と同じく、またしても僕の気が遠くなりかけた頃、ルナは震える手で僕の肩を押し、自ら離れた。
その代わり、自分もその場で横倒しになり、荒い呼吸を繰り返す。
今回は噛んだためか、口の周りに少し血が残っている程度で、さほど悲惨なことにはなっていない。なっていないが……なにしろルナが示す高揚感が半端ない。
とろんとしたこんな目つきは以前と共通するが、これも、ルナが普段は絶対に見せないような表情だろう。
「だめ……わたし……八神君に夢中……だわ」
いやぁ、正しくは「八神君の血に夢中だわ」じゃないのかーと思いはしたが、それを口にするほど僕は野暮ではない。
ただ、膝の上に載っているルナの黒髪を撫で、ひたすら胸に注目していた。こんな役得がいつもあるとは限らないし。
「よしよし……少し落ち着いたら、実験してみようか」
日頃に似合わず、僕は優しい声音でそう囁いた。
「実験?」
薄目を開けて尋ねるので、僕は頷いた。
「そう、実験。使徒化してないとは思うけど、念のために」
「そうか……それもそうね」
ふいに気になったようで、ルナもいそいそと起き上がった、
カップの深そうな純白ブラジャーを晒したままなので指摘すると、さらに赤くなって、胸を手で隠す。
「き、着替えるから、少し待って……というか、少し向こう向いててくれる?」
「仰せのままに」
言われた通りに僕はそっぽを向いたが……ちらちらと覗き見したところでは、替えのセーラー服はもちろん、下着まで両手で抱えて、風呂場の方へ消えた。
全部取り替えるらしい……まあ、気持ちはわからないでもない。
しばらく――というにはかなりの時間が過ぎて、ようやくルナは戻った。
部屋の明かりを元の明度に戻した時に観察すると、既に吸血前のように落ち着いた表情だった。僕をいたわる余裕さえあったほどだ。
「噛んだところの傷、大丈夫?」
「平気、平気。ルナが舐めてくれたから、もう傷跡も消えた」
「そ、そう。……じゃあ、試してみますか」
ソファーに座ったままの僕の隣に、ルナが腰掛けた。
「命令するから、逆らってみてね」
「了解」
「じゃあ、行くわよ」
少し考え、ルナはどういうわけか深呼吸した。
それから、思い切ったように告げた。
「わ、わたしの額にキスして!」
僕は即座に立ち上がり、ルナの両肩に手を置いた。
「ええっ!?」
言われた通りにキスするのかと、ルナが驚いた表情を見せる。
僕は笑顔で、ルナに顔を寄せ、ばっちり唇にキスしてしばらく抱き締めた。
「ふあっ」
喉の奥でルナが妙な声を上げ、一瞬だけ切れ長の目を見開く。
しかし、構わずにキスしたまま動かずにいると、やがて自分も赤い顔で目を閉じて情感たっぷりに応じてくれた。
――多分、長くても一分そこそこだったろう。
ようやく満足した僕は、そっと顔を引き離し、「うわー、僕のファーストキスがっ」などとおどけて見せる。まあ、照れ隠しの面もある、うん。
もちろん、すかさず言い返されたけど。
「それは、こちらのセリフだけど!」
「……嫌だった?」
僕が真剣な表情を作って訊くと、また拗ねたように頬を膨らませる。
「その質問はズルいと思うわ。あと、わたしの命令に対する反応も」
「ははは……いや、ただ反抗するだけじゃ、芸が無いかなぁと。あと、そろそろルナと、ちゃんとキスしたかったし」
「馬鹿ね、お望みなら、毎日してあげたのに」
冷静さを取り戻したルナが、悪戯っぽく言ってくれた。
「まあ、そんな毎日が来るように、そろそろ顔合わせに行くかい?」
「いいわ」
軽やかに立ち上がったルナが、僕の腕を取る。
「わたし達の臣下に会いに行きましょうか。もちろん、次は連中を見つけて決着を着けるのよね?」
「当然! ルナの敵は一人も生かしておかない」
我ながらきっぱりと言い切る。あと、あのインチキ神父がまた出たら、あいつも。
「それに、既に全員に探索を命じてるんだ。ひょっとしたら、もう連中のアジトを見つけてくれているかもしれないよ」
僕は前向きな予想を語り、ルナと一緒に部屋を出た。
決意表明の割に、外は穏やかな午後だったけど……これぞまさしく、嵐の前の静けさだったかもしれない。
使徒達を集めたのは、閉鎖された学習塾のビルだったが、これも小さな不動産会社を営む使徒が、わざわざ貸してくれたものだ。
おまけに、ルナのマンション前には新車が止まっていて、お馴染みの石田氏が、まさに苦虫を噛み潰したような顔で運転席に座っていた。
「暇だったら送迎よろ~」
電話でそう頼んだのだのは僕だが、「俺の立場で暇なわけあるかあっ」と怒鳴りつつも、ちゃんと来てくれたらしい。
『わかりました。忙しいから来られないそうだよ? とルナには報告しておきます』
――そう返したのが効いたのだろう、おそらく。
「ああ、こりゃ前のより後部座席が広くていいですね」
先に車に乗った僕は、そう言ったものの、後部座席とドライバーズシートを遮るアクリル板を見て、「は?」と声に出した。
「変わった趣味ですね……アメリカのタクシーに憧れでもあるんですか?」
「馬鹿吐かせっ」
石田氏は愛想よく吠えた。
おお、マイクみたいな声だぞ……つまり、音声はマイクで拾ってるのか。
それくらい、びっちり上から下まで区切ってるってことだけど。
「これはなあっ。タバコの煙がそっち行かないようにと、マスターに命じられて特注で――というか、指示されたわけだ、うん」
後半にトーンが下がったのは、そのマスターであるルナが乗り込んで来たからだろう。
彼女は満足そうにアクリル板を見て、頷いた。
「いいわね。これならさすがに、後部に臭いが移りにくいでしょう。でも、わたしが乗っている時は、それでも禁煙して」
「……ううっ」
返事とも呻き声ともつかぬ声を上げ、石田氏は車をスタートさせた。
「時に、八神」
石田氏が僕を呼んだ途端、ルナが柳眉を逆立てた。
「ちょっと、簡単に八神君を呼び捨てに」
「いいんだって、ルナ」
僕は穏やかに止めた。
石田氏に話しかけられるなら、むしろぞんざいな口調の方が好ましい。
「僕は好きでざっくらばんに話してもらってるんだから」
「そ、そう……それならなにも言わないけど」
ルナの様子を窺ってから、改めて彼が言った。
「あー、とにかく、今から向かうところに使徒が全員来てるって話だが……あの人数とあの職種の連中を一カ所に集めて、揉めたりしないか?」
「ああ、ヤクザさんや警察の人なんかもいるから? 揉めないかって?」
「そう、そうだよっ」
石田氏は何度も頷く。
「だいたいおまえ、うちの署長まで使徒にしちまったのは、幾らなんでもまずくないか? 俺が睨まれるだろうがっ」
「ご心配なく。単にリストの順番ですと彼には言っておきましたし、そもそも、あのおじさん署長がどう思おうが関係ない。使徒のマスターに対する服従本能は、いかなる理由でも解けませんよ。実験の結果、証明済みです。多少の正義感があろうと、全然関係ないですね」
一応、彼の心配を解く意味で、保証してやった。
「それでも万一のことが起きれば、彼には退場してもらいます」
「そうか……それって殺すって意味だよな。おまえは恐ろしいヤツだな、八神」
ため息と共に、石田氏が呟く。
僕は思わず微笑した。
「最初からそう言ってるじゃないですか? だから、なるべく仲良くやっていきましょう。僕が貴方に退場してもらいたくならないように」
「けっ」
石田氏が憤慨したように声を洩らす。
「警察関係者にヤクザに不動産関係、それに役所の人間まで使徒化しちまいやがって」
「あと、学生も何名か。彼らの口コミ力も、馬鹿にできませんからね」
僕は静かに答えた。
「敵の潜伏場所を探すためには、手段を選びません。本当に必要と判断すれば、使徒全員に命じて、この町の住人全てを使徒化するかもしれない」
ハイブリッド特有の制約はあるが――。
別にルナの直属使徒じゃなくても、石田氏のような使徒が人間を吸血しても、奴隷使徒は誕生する。
要するに、使徒の使徒となるわけだ。
この方法なら、それこそねずみ算式に増えるはず。
ルナが「頼もしいわっ」と言いつつ、そっと僕と腕を絡める。
さすがヴァンパイア少女、そういう面での罪悪感は全く感じないようだ。僕もそうだけど。
「そういえば、例の荷物、持ってきてくれました?」
思い出して問うと、石田氏は嫌そうに頷いた。
「ああ、助手席に置いてある」
「結構です。まあ、必要ないと思いますけどね」
……話している間に、廃ビルが見えてきた。