第30話 平穏 Restful?
文字数 2,058文字
皮肉なことに、カミーラを倒してニーチェを救ったことにより、ゲーテの黄金薔薇十字団内での権威は向上した。部下の失敗に対して自分が責任を取る男。部下がやられたら必ず報復する男。GRCでのカリスマ性は鰻登りだ。この功により、ゲーテは研究所統括所長へと昇格した。
幼馴染は三人とも生きている。自分も出世した。クリスティアーネを抱くこともできた。カミーラも消滅した。経過は最悪だったが、結果は全てが上々だ。
ゲーテは、出世の報告のため、クリスティアーネの部屋にやってきた。夢で見た黄金の薔薇。その周りで飛び回る二羽の鳥。あれは、自分とクリスティアーネだったのだ。
「クリスティアーネ」ゲーテは、薔薇の花束を後ろ手に隠して部屋に入った。
いない。だが、甘い残り香はする。
今日は外出をしていないはずだ。ゲーテはしばらく待ったが、結局、クリスティアーネは戻ってこなかった。
次の日も、その次の日も、いつ行ってもクリスティアーネの姿はない。監視室で映像を調べてみると、毎日ニーチェの元へと通っていることがわかった。
身体中がカーッと燃え盛る。
ーーなんだこれは。
人はよく、嬉しいとか悲しいとか怒るとか、簡単な言葉で感情を表す。だが実際は、さまざまな気持ちが入り混じっている。それが感情だ。しかも感情は、心の中だけで発動している訳ではない。体全体の感覚も、感情の一部に取り込まれている。言葉は所詮、何かを表す代替物に過ぎない。本当の感覚は、もっと複雑にして単純。混色にして純粋だ。
ニーチェが戻ってきたことは嬉しい。再び利用してやろうという思いもある。帰ってきたことにより喜んでいるクリスティアーネを見るのも嬉しい。同時に嫉妬もある。
今の自分の権限があれば、彼女を、ニーチェから遠い職場に異動させることもできる。けれどもそれをして、クリスティアーネが悲しむ顔も見たくない。そして見たいという嗜虐性も溢れてくる。この感情のどこでバランスを取るか。感情は複雑でも行動は一つしか取れない。
ニーチェは研究所に戻ってから、前以上に研究に力を注いでいた。古城で見た時の艶やかな顔ではなく、以前のように目はくぼみ、皮膚はカサカサに荒れている。
どうせ研究ばかりしているのだ。クリスティアーネが取られる心配はない。それよりも寝食だけでなく、俺たち幼馴染三人の絆をも忘れるほどは集中してもらいたくはない。一つのことに全力を傾けることができる人間を見ていると、劣等感が芽生え始める。少しでもニーチェの意識を逸らすために、クリスティアーネをニーチェにまとわりつかせておきたい気持ちもある。
新しい地位についた激務で自分の心を忙殺しているが、ゲーテは、自分の心と体が分離していくような気がして仕方がなかった。
ただ、確かなことは、クリスティアーネは、ニーチェのことを好きだということだ。もし今回、カミーラからニーチェを助けなければ、今頃、自分がクリスティアーネの隣にいたはずだ。
いや、もしかしたら、彼女はまだ、俺のことが好きかもしれない。ただ、いなくなったニーチェが再び消えるかもしれないと不安がっているだけかもしれない。本当は、自分の告白を待っているのかもしれない。
本当は、現実は理想通りではない。頭の良い自分は分かってしまう。それでもゲーテは、クリスティアーネを抱いたあの二日間を忘れることができなかった。
ある日、ようやく、クリスティアーネと会うことができた。部屋に入り、二人きりになった瞬間、ゲーテは確信してしまった。
胸に。
大きな絶望を。
ーー遠い。
人の直感は鋭い。心が離れていると感じた時には、だいたい本当に離れているものだ。それでもなお、ほぼ振られると分かっていても、人には告白したい時がある。
それが今、ゲーテの胸に、突然、飛来した。
「クリスティアーネ」
クリスティアーネは振り向いた。髪の匂いがゲーテをうつ。彼女の顔を見たら、その瞬間、結果が分かってしまう。
ーーそれだけは嫌だ。せめて、告白したいのだ。
俯いたままで続ける。
「俺と、結婚してくれないか?」
沈黙。
ーー耐えられない。
ついゲーテは、クリスティアーネの顔を見てしまった。
怯える目つき。
空白。
何かを考えている。
打算的な目線。
それから徐々に、普段の彼女の表情へと戻っていく。
クリスティアーネはゲーテに、甘えるような口調で尋ねた。
「結婚しても、この研究所で働いてもいいの?」
「ああ」
「ニーチェと会ってもいい?」
「ああ」
「じゃあ、私、」
瞬間、ゲーテは席を立った。
部屋を飛び出していく。
現実は厳しい。
逃げだすしかなかった。
ーーこんなのは脅迫だ。俺の求めている結婚では断じてない。俺は知らず知らずのうちに、彼女の心までをも強姦していたのだ。
もう、俺には出世しかない。
以降、ニーチェにもクリスティアーネにも会いづらくなったゲーテは、ますます、自分のやるべき仕事に集中していった。図らずも、劣等感を抱いていたニーチェと同じく、自分の人生に全精力を傾けていた。
幼馴染は三人とも生きている。自分も出世した。クリスティアーネを抱くこともできた。カミーラも消滅した。経過は最悪だったが、結果は全てが上々だ。
ゲーテは、出世の報告のため、クリスティアーネの部屋にやってきた。夢で見た黄金の薔薇。その周りで飛び回る二羽の鳥。あれは、自分とクリスティアーネだったのだ。
「クリスティアーネ」ゲーテは、薔薇の花束を後ろ手に隠して部屋に入った。
いない。だが、甘い残り香はする。
今日は外出をしていないはずだ。ゲーテはしばらく待ったが、結局、クリスティアーネは戻ってこなかった。
次の日も、その次の日も、いつ行ってもクリスティアーネの姿はない。監視室で映像を調べてみると、毎日ニーチェの元へと通っていることがわかった。
身体中がカーッと燃え盛る。
ーーなんだこれは。
人はよく、嬉しいとか悲しいとか怒るとか、簡単な言葉で感情を表す。だが実際は、さまざまな気持ちが入り混じっている。それが感情だ。しかも感情は、心の中だけで発動している訳ではない。体全体の感覚も、感情の一部に取り込まれている。言葉は所詮、何かを表す代替物に過ぎない。本当の感覚は、もっと複雑にして単純。混色にして純粋だ。
ニーチェが戻ってきたことは嬉しい。再び利用してやろうという思いもある。帰ってきたことにより喜んでいるクリスティアーネを見るのも嬉しい。同時に嫉妬もある。
今の自分の権限があれば、彼女を、ニーチェから遠い職場に異動させることもできる。けれどもそれをして、クリスティアーネが悲しむ顔も見たくない。そして見たいという嗜虐性も溢れてくる。この感情のどこでバランスを取るか。感情は複雑でも行動は一つしか取れない。
ニーチェは研究所に戻ってから、前以上に研究に力を注いでいた。古城で見た時の艶やかな顔ではなく、以前のように目はくぼみ、皮膚はカサカサに荒れている。
どうせ研究ばかりしているのだ。クリスティアーネが取られる心配はない。それよりも寝食だけでなく、俺たち幼馴染三人の絆をも忘れるほどは集中してもらいたくはない。一つのことに全力を傾けることができる人間を見ていると、劣等感が芽生え始める。少しでもニーチェの意識を逸らすために、クリスティアーネをニーチェにまとわりつかせておきたい気持ちもある。
新しい地位についた激務で自分の心を忙殺しているが、ゲーテは、自分の心と体が分離していくような気がして仕方がなかった。
ただ、確かなことは、クリスティアーネは、ニーチェのことを好きだということだ。もし今回、カミーラからニーチェを助けなければ、今頃、自分がクリスティアーネの隣にいたはずだ。
いや、もしかしたら、彼女はまだ、俺のことが好きかもしれない。ただ、いなくなったニーチェが再び消えるかもしれないと不安がっているだけかもしれない。本当は、自分の告白を待っているのかもしれない。
本当は、現実は理想通りではない。頭の良い自分は分かってしまう。それでもゲーテは、クリスティアーネを抱いたあの二日間を忘れることができなかった。
ある日、ようやく、クリスティアーネと会うことができた。部屋に入り、二人きりになった瞬間、ゲーテは確信してしまった。
胸に。
大きな絶望を。
ーー遠い。
人の直感は鋭い。心が離れていると感じた時には、だいたい本当に離れているものだ。それでもなお、ほぼ振られると分かっていても、人には告白したい時がある。
それが今、ゲーテの胸に、突然、飛来した。
「クリスティアーネ」
クリスティアーネは振り向いた。髪の匂いがゲーテをうつ。彼女の顔を見たら、その瞬間、結果が分かってしまう。
ーーそれだけは嫌だ。せめて、告白したいのだ。
俯いたままで続ける。
「俺と、結婚してくれないか?」
沈黙。
ーー耐えられない。
ついゲーテは、クリスティアーネの顔を見てしまった。
怯える目つき。
空白。
何かを考えている。
打算的な目線。
それから徐々に、普段の彼女の表情へと戻っていく。
クリスティアーネはゲーテに、甘えるような口調で尋ねた。
「結婚しても、この研究所で働いてもいいの?」
「ああ」
「ニーチェと会ってもいい?」
「ああ」
「じゃあ、私、」
瞬間、ゲーテは席を立った。
部屋を飛び出していく。
現実は厳しい。
逃げだすしかなかった。
ーーこんなのは脅迫だ。俺の求めている結婚では断じてない。俺は知らず知らずのうちに、彼女の心までをも強姦していたのだ。
もう、俺には出世しかない。
以降、ニーチェにもクリスティアーネにも会いづらくなったゲーテは、ますます、自分のやるべき仕事に集中していった。図らずも、劣等感を抱いていたニーチェと同じく、自分の人生に全精力を傾けていた。