第32話 有難うさん

文字数 2,854文字

 ある朝、出勤して事務室に入ると、少し困った様子の近藤さんに声をかけられた。
「長谷川さんおはようございます。今、少しお時間良いですか?」

 近藤さんの話では、昨日の夕方、利用者からブラウジングコーナーの大型ソファーに、ずっと寝転がっている老人がいるからどうにかしてくれといった苦情があり、見かけたスタッフが注意したが、無視して全然話を聞いてくれなかったという事であった。

「結局、しばらくして居なくなったようですが。担当スタッフに訊いたら、どうやら最近常習の老人みたいなんです」
「それは困りましたね。分かりました、今度見かけたらすぐに教えてください」
「承知しました」

 その日の昼食時間、僕は近藤さんと一緒に弁当を食べていた。
「ブラウジングコーナーとかにある、大型のソファーってどこの図書館も『くつろぎ過ぎちゃう』利用客問題ってあるみたいですね。前の図書館でも問題になってましたよ」
「寝ちゃったり、長居するんだよね。一人分ならまだしも、横になっちゃう人もいるらしいからね。それで、その図書館の時はなんか対策したの?」
「はい、弾力のあるソファーをやめて木製にして、さらに一人分で横に仕切をいれたんです」
「ああ、なるほどね。でも、なんか意地悪してる感じがするよね」
「うん、そうですよね。でも、まあこればっかりは利用者のマナーの問題ですから、しょうがないですね」
「まあね」

 すると、事務室から近藤さんを呼ぶ声が聞こえた。
「あっ、はい」
「上から連絡で、ソファーで例の老人がまた寝てるらしいです。凄いいびきで、周りの人からクレームが……」
「今、行きます」
 近藤さんはそう言って電話を切ると、休憩室に戻って弁当に蓋をした。
「僕も行くよ」
「よろしくお願いします」
 そして、僕と近藤さんは階段を早足で上がっていった。

 ブラウジングコーナーに近づくと、いびきの音は、辺り一帯に響いている。
「確かに、これは凄いな」
 僕は近藤さんと目を合わせてそう言うと、その老人に近づき軽く肩を叩いた。
「もしもし、お爺ちゃん」
「……」
「お爺ちゃん、起きてください」
「……」
「ダメだね。耳が遠いのかな」
「あ……っ、長谷川館長代理。これ」
 見ると、その老人の胸ポケットには何かのプレートが入っている。そして、そのプレートにはその老人の名前と連絡先が記入してあった。

「林達夫さんか。認知症の老人なんだな。ここに連絡して、迎えに来てもらおうか」
「ええ、そうですね」
 そして、事務室から近藤さんが連絡をすると、30分くらいで中年の夫婦がやってきた。
「すいません、うちの父がご迷惑かけて」
「いえ」
「明日から、施設に入れますので、もうご迷惑をかける事はないかと思います。すいませんでした」
「ああ、そうでしたか」

 それから数日後、先日の林さん夫婦が僕を訪ねてきた。
「先日は、ご迷惑お掛けしました」
「いえ。お父さんは大丈夫でしたか?」
「はい、父は無事に施設に入る事が出来ました」
「ああ、それは良かったです」
「それで、今日伺ったのは、一つご相談がありまして」
「あ……っ、はい。どんなご相談ですか?」
「父が施設に入ってから、家の中を整理してたのですが、その時このメモ用紙が出てきたんです」
 林さんは、そう言って僕に古いメモ用紙を差し出した。見ると、そこには何かの文章が書かれてあった。

『今年は柿の豊年で山の秋が美しい』

「なんだろう? この文章はどこかで見たような……」
「私も始め、何かの詩の一部なのかと思いましたけど」
「それで、先日施設の方から連絡がありまして、メモに書かれた本を探してくれと父が突然言い出したと」
「なるほど。本の文章の一部でしたか」
「施設の人が題名を聞いても、父は思い出せないようなんです」
「少しお待ちください。調べてみます」

 僕は事務室に入り、近藤さんにパソコンのネット検索で調べてもらった。
「館長代理、ありました。川端康成の『有難う』ですね」
「ああ、そうだった。始まりと終わりが同じ文なんだよね」
「へえ……、さすがよくご存じですね」
「学生時代に読んでいて気づいたんだ。それで、その時気になって調べたんだよね」
「理由は分かったんですか?」
「いや……、はっきりとした答えは出てないみたいなんだよね。これは、川端康成ご本人じゃないと分からない。その時は話の内容から、結局主人公が元に戻れた安心感を表してるんじゃないかと僕は思ったけどね」
「へえ……、面白そうですね。今度僕も読んでみます」
「今ので、ネタばれしちゃったけどね」
「ははは、逆にそれを知って読むのも良いと思いますよ」

 そして、僕は1階のカウンターに戻り、林さん夫婦に説明をした。
「ああ、なるほど『有難う』ですか。父は、どうしてこの話に思い入れがあるんでしょうね」
「うーん、どうですかね」
「ありがとうございました。今度、この本を買って父親に持っていきます」
「ええ、そうしてあげて下さい」

 翌週、林さんが再び図書館の事務室に訪ねてきた。
「長谷川さん、こないだは有難うございました」
「いえ、そんな大したことではないので」
「それで、父に『有難う』の本を渡したんですが……」
「ええ、どうでしたか?」
「そうしたら、父が突然泣き始めたんです」
「え……っ」
「理由を聞いても教えてくれなくて。長谷川さん、本の事で何か心当たりございませんか?」
「じゃあ、この本の内容少し説明しますので、こちらへどうぞ」

 そう言って、僕は事務室の隣の休憩室へ林さんを招き、ポットからコップにお茶を注ぐとテーブルに置いた。
「すいません。急に訪ねてきて、面倒な事言ってるのに、お茶まで出して頂いて」
「いえ。どうぞ、そちらへ」
「あ……っ、はい」

「この小説は、貧しい家庭の母親が、娘を売りに行く為に一緒にバスに乗るところから始まるんです。そして、たまたまこの日、運転を担当していたのが『有難うさん』と呼ばれて地元の人に親しまれているバスの運転手。常に礼儀良く感謝を忘れないこの運転手への娘の恋心が描かれてる話なんです。そして、結局春まで娘は売られることはなくなり、翌日親子は帰りのバスに乗り、話は終わるんです」

「なるほど」
「この話の中にヒントがあるのかなと思います」
「娘、娘……、そういえば昔父から聞いたことがあります。妹がいたと」
「今、その妹さんは?」
「いや、分かりません。生き別れたと言ってました」
「じゃあ、林さんのお父さんは、今妹さんに会いたくなったんじゃないですかね。言いづらいですが、当時、この小説の娘さんと同じような状況だったんじゃないでしょうか。だから、この本の事が」
「80年以上も前ですからね、ありえますね。分かりました、親族にあたって聞いてみます」
「ええ、そうしてあげて下さい」

 林さんが帰った後、事務処理をしていた近藤さんが手を止めて言った。
「これは、ますます『有難う』が読みたくなりました。今日、借りて帰ります」
「うん。こういった昭和初期の作品は、その当時の時代背景を考えながら読むと面白いですよ」
「なるほど。そうですね」
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