第17話 傷跡

文字数 5,770文字

「あの子、学校どうしてるのかね」
「最近、良く見るよね、平日なのに」

 この日、僕が新聞コーナーにある新聞を挟むサスペンダーの修理をしていると、カウンターで馬場さんと浅田さんの話し声が耳に入った。二人の視線の先を見ると、小学生の男の子が机で本を読んでいた。
「なんか、最近日中に図書館にいるんですよ、あの子……」
 浅田さんが近づいてきて、僕にささやいた。

 僕は新聞のサスペンダーの修理を終えると、男の子に微笑みながら近づいた。
 何かに怯えているようなその男の子は、僕に気づくと席を立とうとする。僕は、警戒されないように優しく声をかけた。
「こんにちは。この図書館の職員の長谷川です」
 男の子は、黙って頷いた。
「君は、どこの学校なの?」
「……大村小学校」
「名前は?」
「伸介」
「伸介……君。苗字は?」
 ――すると、男の子は走って図書館から出ていってしまった。
 男の子が閲覧机に残していった本を見ると、それは、算数の教材本だった。

 僕は、事務室に戻ると大村小学校の吉井先生に電話を入れた。
「図書館の長谷川です」
「どうも、この間は有難うございました。助かりました。――で、どうしました?」
 電話の声を聞くと、吉井先生は今はどうやら忙しそうだ。電話の向こうから喧騒の様子も伝わってくる。

「すいません、忙しい時に。実は……、最近平日の学校の時間中に、図書館に男の子が来てるんです」
「え……っ、ほんとですか?」
 電話の向こうで、吉井先生の驚いた声が聞こえた。
「それで、今訊いたら大村小学校だってその子が言ったので」
「そうですか。……それは米井だな。米井伸介」
 吉井先生は、急に小声になって言った。
「そうです。伸介って言ってました」
「そうか……。あっ、長谷川さんごめんなさい、ちょっと場所変わります。少しお待ち下さい」

 そして、僕が待っていると、しばらくして受話器から吉井先生の声が聞こえてきた。
「すいません、人に聞かれるとあれなんで場所変わりました。それでね、ここ最近米井は不登校なんですよ。何度も担任が家まで行ってるんですけど、母親が出てきて体調が悪いから休ませますって。今も報告を受けた教頭が役所とやり取りしてたところなんです」
「そうでしたか」
「様子はどうですか? 傷とか怪我とか」
「そんなにじっくり見てないので分からないですが、体調が悪い感じではなかったですね。傷……ですか。そこまでは見れなかったです」
「今は、まだいますか?」
「いや……、名前訊いたら、出ていってしまいました」
「そうでしたか、今度図書館に来たら、声掛けずに僕に連絡もらえないですか?」
「はい、分かりました」
「一度、米井と話がしたいんです」
「なるほど」

 そして、吉井先生の電話の声が更に小声になった。
「内緒でお願いしますけど、虐待の疑いもあるんです」
「え……っ」
「だから、今関係各所とも連絡を取りあっているんですよ」
「そうでしたか」

 それから数日後、僕が地下1階の閉架書庫で作業をしていると、事務室に1階のカウンターから内線が入った。そして、内線に出た吉岡さんが僕を呼んだ。
「長谷川さん、カウンターで日下部さんが呼んでるよ」
「はい、はい」
 僕は、作業をしている手を止めて1階に上がった。

「長谷川さん、こないだ朝礼で話してた子って、あの子ですかね?」
 そう小声で言うと、日下部さんは書架の間に立って本を読んでいる男の子を指差した。
「あ……っ、あの子ですね。ありがとうございます」
 僕は、事務室に戻って大村小学校の吉井先生に電話をすると、ちょうど学外に出ていて夕方には戻ってくるという事だった。僕は、急ぎの用事で至急連絡を取ってもらえるようにお願いして電話を切った。

 そして、僕は米井君が立っている書架間の通路の一つ隣の通路に入り、本の整理をしているふりをして、彼の様子を見た。彼の今いる通路の書架の本は、ほとんどが図書分類の四類なので、算数か理科の本を探していると思われた。この間、吉井先生に言われたように顔や体に傷跡がないか見ているが、なかなか気づかれない様に確認するのは難しい。

 そして、米井君が書架の本を取ろうとした瞬間、彼の手に大きな絆創膏が2か所貼られているのが見えた。しかし、僕がそれに気づいた瞬間に目が合ってしまい、彼は驚いて逃げ出そうとしたので、僕は思わず声をかけた。

「――米井君、今学校で使ってるドリルとかあるから見せてあげるよ」

 そう言うと、逃げ出そうとした彼は立ち止まって僕を見た。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
 僕は、早足で地下の閉架書庫に行くと、保管用として置いてある小学校の算数のドリルを持って戻ってきた。
「ほら、いいよ、そこで読んでいきな。これは貸出し出来ないけど、図書館内なら読んでいいよ」
 僕がそう言うと、米井君は「ありがとう」と言って、閲覧机に行って読み始めた。

 しばらくして、僕が米井君の所に行き「喉渇かない?」と訊くと、コクッと頷いた。
「ここだと、飲み物飲めないから、地下の事務室でお茶でも飲むかい?」
 そして、地下のミーティング室に米井君を案内して座らせると、お茶の入ったコップをテーブルに置いた。
「……ありがとう」
「うん、どうぞ」

 すると、米井君のお腹が大きな音を立てた。
「あれ? お昼食べてないの?」
 米井君は、恥ずかしそうにしてすこし黙っていたが、やがて静かに頷いた。ちょうど、今日は田中副館長が急遽昼から帰宅していたので宅配弁当が一つ余っていた。
 僕はそれを米井君に出してあげると、しばらく黙って見つめていたが、僕が勧めるとすごい勢いで食べ始めた。
「その手の絆創膏痛そうだね。大丈夫?」
 僕は、彼の食事しているのを見ながら訊いた。
「うん、痛くないよ」
 少し落ち着いてきた米井君は、元気に返事をした。
「その絆創膏どうしたの?」
「お母さんが病気だから、料理の手伝いしてたら、その時やっちゃったんだ」
 そう答えて、米井君は微笑んだ。
「へえ、すごいね。立派じゃん」
 すると、事務室から吉岡さんが来て、部屋の外から僕を手招きで呼んだ。
「じゃあさ、弁当食べ終わったら、ここで算数の勉強していいからね」
「うん、ありがとう」

「大村小の吉井先生から電話よ」
 事務室に入ると、吉岡さんがそう言って受話器を僕に手渡した。
「ああ、すいませんね、長谷川さん。よりによって外出して……」
「いえ」
 僕は、隣のミーティング室にいる米井君に聞こえない様に小声で話した。
「今、米井君は図書館の地下1階の職員用のミーティング室にいます。
「ああ、そりゃ助かる。直ぐに担任連れていきますわ」
「それで、その前に報告しときたい事があるので、米井君に会う前に時間取れますか?」
「はい、分かりました」

 そして僕は、吉井先生が来る間、ミーティング室で勉強をする米井君を見ながら、こんなに勉強をしたい子が学校に行かないなんて、どんな事情があるんだろう、と考えていた。

 電話を切ってから、15分程して学年主任の吉井先生が、米井君のクラス担任の益田先生を連れて図書館にやってきた。この時、米井君は地下1階のミーティング室で、算数のドリルを見ていた。
 僕と吉井先生と益田先生の三人は、米井君に気づかれない様に、図書館の外で話をした。
「すいませんね、長谷川さん。面倒おかけして」
「いえ、大丈夫です。それで米井君なんですけど、図書館に来て勉強をしていたみたいなんです」
「え……っ」
 二人は不意をつかれたように驚いた顔になった。
「今も、算数のドリルを見てます」
「なんで、学校来ないんだろうなあ」
 吉井先生が不思議そうに言った。

「それで、今日見たら米井君の手に傷がありました。2か所……」
「――やはりですか」
 その瞬間、二人の顔色が変わった。僕はそのまま話し続ける。
「それで、今日も逃げ出そうとしたので、引き留める為に算数のドリルを見せました。そして、どうも昼ごはんを食べてなかったみたいで」
「これは、ますます虐待が疑われますね」
 吉井先生と益田先生が、目を合わせて頷いている。
「それで、お弁当を出してあげて話を聞いたんですけど」
「ほお、話が聞けたんですか。それで?」
「どうも、手の傷は、病気の母親の手伝いをしている時につけたものらしいんです。話し方から嘘ではなさそうな気がしました」
「ふむ……」
「確かに米井の家は、母子家庭で生活も豊かではないと聞いてます。それで母親が病気だとすると……」
 益田先生が、吉井先生を見ながら言った。吉井先生は、腕組して考え込んでいる様子だ。

「これは先日と今日、米井君を見てきた僕の感なので信用できないかも知れませんけど、やはり、本当にお母さんの面倒を見る為に学校に行かないんじゃないかと」
「確かにね……、ただ、俺は長谷川さんには世話になってるから信用したいけど、こればかりはどうでしょうね」

「とりあえず、米井君はしばらくここにいますので、家の方で母親と会ってくれませんか?」
 僕がそう言うと、吉井先生は少し間を置いてから頷いた。
「……うん、確かに今、ここで米井に先に会わないほうが良い気がする」
 吉井先生がそう言うと、益田先生も頷いた。
「我々教師より、長谷川さんの方が米井も色々と気安く話すかもしれないしね」
「じゃあ、母親の方に会いに行くか。長谷川さん、申し訳ないけど米井をもうしばらく預かっといてくれますか」
「ええ、なんとかしてみます」

 そして、吉井先生と益田先生は、米井君の母親に会いに彼の家に向かった。
 僕は、事務室に戻り廃棄用のコピー用紙の裏紙をまとめると、米井君のいるミーティング室に入った。
「この用紙と、鉛筆あげるから使っていいよ」
 そして、テーブルの上に裏紙と鉛筆を置いた。
「ありがとう」 
 米井君は嬉しそうにお礼を言うと、ドリルの問題をやり始めた。

 僕はそれをしばらく見ていたが、1ページ分の解答が終わると「貸してみな、見てあげるよ」と言って、米井君から用紙を受け取って解答の採点をした。
「バツが2つか……、すごいじゃん」
 僕がそう言うと、米井君は嬉しそうに微笑んだ。
「君は、勉強が好きなの?」
 僕が訊くと、彼はしばらく黙っていたが、やがて「うん」と言った。
「そっか」
「勉強して、偉くなって早くお母さんを楽にしてあげるんだ」
「すごいね、頑張ってね」

 そして吉岡さんが、ミーティング室の外から僕に手で合図をしたので、図書館の駐車場へ向かった。
 駐車場では、吉井先生と益田先生が、米井君の母親を連れてやってきていた。
「この度は、ご迷惑おかけして申し訳ございません」
 米井君の母親は、僕に頭を下げて謝った。
「いえいえ、米井君は図書館で大人しく勉強していただけです」
「これからは、息子としっかり話しますので」
「ええ、そうしてあげて下さい。米井君と話したら、勉強してお母さんを楽させてあげるんだって、言ってましたよ」
「ああ、そんな事を伸介は」
 母親は、そう言って目を下に向けた。吉井先生と益田先生も黙って頷いている。

「それでは……」
 僕が吉井先生を見ると、彼は頷いた。
「米井君の所に案内しますね」
「はい、すいません」
 僕は、母親を連れて駐車場の裏手にある事務職員専用の出入り口から図書館に入った。そして、ミーティング室の扉を軽く叩いて中を覗くと、米井君はまだ勉強を続けている。
「米井君、今いい?」
 僕がそう言うと、米井君は「うん」と頷いた。
「お母さんが迎えに来たよ」
 そして、母親が僕の後ろから顔を出すと、米井君は驚いた顔になり、そして気まずそうに視線を落とした。
「いいのよ、今日の事は。私が悪かったわ、ごめんね、伸介」
 すると、米井君は少しずつ視線を母親に向けた。
「さぁ、帰りましょう。お金の事はなんとかなりそうだから……、大丈夫、心配ないから」
 そう言って、母親は優しく米井君の手を引いた。

 僕は事務室から紙袋を持ってきて、算数ドリルと鉛筆とコピー用紙の裏紙を入れると「内緒だけど、これ持ってきな」と言って、米井君に手渡した。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 米井君は、嬉しそうに笑った。
「すいません。本当に色々と……」
 母親は、恐縮しながら頭を下げた。

 手を繋いで帰っていく米井君と母親を見ていると、事務室にいた吉井先生と益田先生も出てきた。
「長谷川さんには、今回もまた助けられました。どうも有難うございました」
「いや、僕は何にもしてないですよ」

「母親に話を聞いたら、自分の病と経済的な貧しさに悩んで、イライラして思わず米井に言ってしまったらしいです『伸介が学校にいかなきゃ、お金かかんないのに』とね」

「なるほど、そう言う事でしたか」
「おそらく米井は、母親にそう言われて、給食代と教材費が負担になっているなら、自分が学校に行かなければいいと、子供心に思ったんでしょうね」

 ……そして、米井君は母親に嘘をついて休んでいた。母親もうすうす気づいていたが、自分の体調が悪い事もあり黙っていたらしい。
「まぁ、確かに理科の実験材料として実験キットを購入してもらっても、授業で使うのはせいぜい1回か2回。家に持ち帰っても2度と使うこともなくて無駄な事は多いですよね、それで千円。たかが千円なのか、その日の食事に困ってる家庭にとっては大事なお金なんですよね」
「そうだな、増田先生の言う通り、その辺りは学校でも考えていかなきゃいけないな」
 そう言って、吉井先生は頷いた。

「それで、就学援助制度の事を話したら、母親は、そういうのがある事すら知らなかったみたいで。まぁ、生活保護受けてるんだから、どこかで説明はされてるとは思いますけどね」
 益田先生がそう言うのを、僕は黙って頷いた。
「とりあえず母親には就学援助の申請をしてもらって、一度学校指導課の方で相談に乗ります。おそらく申請は通るだろうし」
「そうですか……。それは良かったです」

「米井は、しばらくこれで様子を見ますので、また図書館の方で何かあったら連絡お願いします。米井が心を開いているのは、どうやら長谷川さんのようですので。教師としてはお恥ずかしい限りだが」
 そう言って、益田先生は頭を下げた。
「どんな理由があっても、本を求めてくる人には、しっかり対応するのが僕の仕事だと思ってますので」
 僕が話している横で、吉井先生は深く頷いていた。
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