第9話 恋心
文字数 3,379文字
僕と京子さんは、園児が診察している間、薄暗い待合室で座って待っていた。
その時、京子さんが僕を見て申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、長谷川君。忙しいのに」
「あっ……いや、大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕はドキっとした。
「どうしたの?」
「いや、長谷川君って呼ばれたの、高校の時以来だなって思ってね」
「あ……っ、ふふ、そうだね。でも長谷川君はずっと私の事、京子さんだけどね」
「うん、そうだね」
――僕と京子さん、間野京子は地元の中学、高校の同級生だった。クラスが同じになったことは一度もなかったが、お互いに本が好きだった事もあって、図書委員を三回一緒にやった。
図書委員の仕事というのは、昼食後の休憩時間や放課後の図書室で、本の整理をしたり、カウンターの受け付けをする事だった。
そして、僕はその頃から京子さんにずっと恋心を抱いていた。
「今日は、長谷川君とカウンター係か……」
ある日の放課後、カウンターに座って本を読んでいる僕の隣の席に京子さんが座った。
「うん、そうみたいだね。……でも、今日は少ないよ利用者」
内心の緊張を隠しながら、僕は彼女と話した。
「ところで、長谷川君はどんな本が好きなの?」
京子さんは、そんな僕を気にする様子もなく体を寄せて訊いてきた。
「うーん、最近は歴史小説が好きかな。織田信長とか……特に戦国時代のね」
「へえ……、だから、社会の成績が良いんだね」
「うん、日本史だけだけどね」
「私は童話とか絵本が好き。将来は保育士になって、子供に本を読んであげるのが夢なの」
「すごいね、もう将来の事も考えてんだね」
僕が驚いた表情で言うと、京子さんは笑顔で頷いていた。
「長谷川君は、どんな職業になりたいの?」
「僕は、何だろう。やっぱ本に関わる仕事かな」
「うん、長谷川君にはきっと向いてるね」
「そうかな」
カウンターで、仲良く話しているのを見た友達からは、時々冷やかされた事もあったが、田舎の高校生でしかも特に奥手な僕は、京子さんとの関係をこれ以上進展させることは出来ずに学生生活を送っていた。
しかしある日、僕にとってちょっとした事件が起こった。
それは、京子さんと図書委員の担当だった日の出来事で、先生から頼まれていた翌日の授業で使う本が見当たらずに、二人で夕方遅くまで探していた。
図書室を利用する学生もいなくなり、薄暗くなってきたので、もう帰っていいと先生も言ってくれたのだが、責任感の強い京子さんはなかなか帰らなかったので、僕も付き合って探していた。
僕はこの時、薄暗くなった図書室で好きな子と二人きりになっている状況に、どきどきしながら本を探していた。
結局、しばらく経っても見つからず、両面あるスチール書架の真ん中のスぺースに落ちていたその本を見つけた時には、もう外は暗くなっていた。
すでに、帰り道も暗くなっていたので、僕は自分の家とは方向が全く逆であったが、京子さんを家の近くまで送っていった。
「いいのに、長谷川君」
「暗い道を女の子一人で返して、なんかあったら……」
「優しいのね」
暗くて顔はよく見えないが、微笑んでいる口元だけは分かった。その口元を見ていると、僕はまた意識してしまって、さらにドキドキしていた。
「いや、この後に寄る所があるからついでだよ」
「こんな時間に?」
この時、横顔に彼女の視線を感じた。
「う……、うん」
「ふーん」
僕はこの時、京子さんと二人きりで同じ空間にいたという余韻を、もう少し感じていたいという気持ちもあった。
そして、一緒に夜道を歩いている間、何度も告白しようと思ったが結局その勇気が僕には無かった。
京子さんと別れた後、僕は今まで経験した事が無い程、喉の奥までカラカラに渇いていて、すぐに自動販売機でジュースを買って一気飲みした。
その後、大学が別々になってしまったので疎遠になってしまったが(卒業式での告白も考えたが空振りに終わっていた)僕が鳴滝町の役場の職員になって図書館司書で働くようになってから、桃山幼稚園の保育士になっていた彼女と3年前に図書館で偶然出会った。
その時、僕は勝手に運命的なものを感じていたが、相変わらず何も行動を起こせずにいた。
ところが、去年まで図書館でパートをしてもらっていた照屋さんという女性がいて、彼女の娘と京子さんの通っていた短大が一緒で、しかも親友だった。
ある日、照屋さんの娘が、京子さんからずっと片思いをしている人がいるという話を聞き、それがどうやら図書館に勤めている人という事であった。
照屋さんが、図書館でパートをしている事を知っていた娘は、彼女に軽い気持ちでそれを言ってしまったらしい。
そして、照屋さんも翌日の朝にはビッグニュースとしてパート仲間に話してしまった。図書館には対象になりそうな男性が僕しかいないのもあって、確定情報として広まっていった。そして、その週の終わりには僕の耳にも入ってしまったのだが、もちろん京子さんはそれを知らない。
それからというもの、僕の周辺は勝手にヤキモキしているという現状だ。
もちろん、それを知ってしまった僕は、特に意識してしまっているのだが、これだけ周りに注目されてしまうと、元々奥手な僕は、益々動き辛くなっていた。
そんな時、年末に毎年行われる図書館の職員、パートによる忘年会があり、馬場さんから誘われた京子さんともう一人の桃山保育園の保育士が来ていた。ただ、結局この時の僕も、周りの好奇の目による恥ずかしさで、彼女とあまり話もせずに終わってしまった。
しかし、なんとか(馬場さんの強引な仲介もあって)メールアドレスの交換は出来たので、仕事上のメールのやり取りは何回かするようになっているのだが、彼女を食事に誘う機会も勇気も無く今に至っている。
「……大事にならなくて良さそうだね」
「うん、本当にありがとうね」
「いや、ところで、京子さ……」
「――本当に先生、どうもありがとうございました」
突然、診察室の横スライドの扉が開いて、加奈と母親が出てきたので、僕と京子さんは急いで立ち上がった。
「京子先生も、ありがとうございました」
母親は、待合室で待っていた京子さんに深くお辞儀をした。
「そして、えっと……」
「あっ、この方は、鳴滝町立図書館の長谷川さんです。今日、ここまで加奈ちゃんを車で乗せてきてくれました」
京子さんが、僕を母親に紹介すると母親は僕にも深くお辞儀をした。
「では、京子先生。今日はこのまま娘を連れて帰りますので」
「はい、分かりました」
そして京子さんは、加奈の前で屈むと、微笑みながら優しく話した。
「じゃあ、加奈ちゃん。お風邪しっかり治して、また保育園来てね」
「うん」
「じゃあ京子先生、すいません」
そう言うと、加奈と母親は、隣の調剤薬局に薬をもらいに病院を出ていった。
そして、僕は診察室にいる久世先生にお礼を言ってから、京子さんと病院を出た。
「さてと、図書館に戻ろうか」
「うん」
僕は、助手席に散らばっている伝票や本を急いで片付けると、彼女を助手席に乗せた。
図書館に戻る5分間、運転するハンドルを持つ手は、暑さのものではない汗を感じていた。二人きりの空間というのは、あの高校の図書室の時以来だった。
しかし、またここでも僕は何も進展させることが出来ずに、京子さんとの5分間のドライブは終わってしまった。
……この時の僕は、京子さんの保育園の園児が病気になっている一大事に不謹慎だろう、と自分自身を納得させていた。
僕が図書館の駐車場に車を止めると、京子さんは僕に言った。
「今日は、ありがとうね。長谷川さん」
僕は『さん』に戻った言葉に少し引っ掛かりながら「ううん、いいよ」と言って、車を降りた。
図書館に二人で戻ると、それをカウンターで見た馬場さんは、明らかに落ち着きがなくなり、作業室にいる『仲間』の元に階段を小走りで下りていった。
僕はそれを見て、やれやれといった感じでため息をついた。
こうして、保育園の園児たちの遠足は無事に終わり、京子さんも帰っていった。
園児たちを見送ると、すぐに馬場さんが僕に近づいてきた。
「あの……長谷川さん、さっきの……」
彼女が、そう言い掛けたところで「――何も期待することはないですよ」と、僕はぴしゃりと言って、そのまま事務室へと戻った。
その時、京子さんが僕を見て申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、長谷川君。忙しいのに」
「あっ……いや、大丈夫だよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕はドキっとした。
「どうしたの?」
「いや、長谷川君って呼ばれたの、高校の時以来だなって思ってね」
「あ……っ、ふふ、そうだね。でも長谷川君はずっと私の事、京子さんだけどね」
「うん、そうだね」
――僕と京子さん、間野京子は地元の中学、高校の同級生だった。クラスが同じになったことは一度もなかったが、お互いに本が好きだった事もあって、図書委員を三回一緒にやった。
図書委員の仕事というのは、昼食後の休憩時間や放課後の図書室で、本の整理をしたり、カウンターの受け付けをする事だった。
そして、僕はその頃から京子さんにずっと恋心を抱いていた。
「今日は、長谷川君とカウンター係か……」
ある日の放課後、カウンターに座って本を読んでいる僕の隣の席に京子さんが座った。
「うん、そうみたいだね。……でも、今日は少ないよ利用者」
内心の緊張を隠しながら、僕は彼女と話した。
「ところで、長谷川君はどんな本が好きなの?」
京子さんは、そんな僕を気にする様子もなく体を寄せて訊いてきた。
「うーん、最近は歴史小説が好きかな。織田信長とか……特に戦国時代のね」
「へえ……、だから、社会の成績が良いんだね」
「うん、日本史だけだけどね」
「私は童話とか絵本が好き。将来は保育士になって、子供に本を読んであげるのが夢なの」
「すごいね、もう将来の事も考えてんだね」
僕が驚いた表情で言うと、京子さんは笑顔で頷いていた。
「長谷川君は、どんな職業になりたいの?」
「僕は、何だろう。やっぱ本に関わる仕事かな」
「うん、長谷川君にはきっと向いてるね」
「そうかな」
カウンターで、仲良く話しているのを見た友達からは、時々冷やかされた事もあったが、田舎の高校生でしかも特に奥手な僕は、京子さんとの関係をこれ以上進展させることは出来ずに学生生活を送っていた。
しかしある日、僕にとってちょっとした事件が起こった。
それは、京子さんと図書委員の担当だった日の出来事で、先生から頼まれていた翌日の授業で使う本が見当たらずに、二人で夕方遅くまで探していた。
図書室を利用する学生もいなくなり、薄暗くなってきたので、もう帰っていいと先生も言ってくれたのだが、責任感の強い京子さんはなかなか帰らなかったので、僕も付き合って探していた。
僕はこの時、薄暗くなった図書室で好きな子と二人きりになっている状況に、どきどきしながら本を探していた。
結局、しばらく経っても見つからず、両面あるスチール書架の真ん中のスぺースに落ちていたその本を見つけた時には、もう外は暗くなっていた。
すでに、帰り道も暗くなっていたので、僕は自分の家とは方向が全く逆であったが、京子さんを家の近くまで送っていった。
「いいのに、長谷川君」
「暗い道を女の子一人で返して、なんかあったら……」
「優しいのね」
暗くて顔はよく見えないが、微笑んでいる口元だけは分かった。その口元を見ていると、僕はまた意識してしまって、さらにドキドキしていた。
「いや、この後に寄る所があるからついでだよ」
「こんな時間に?」
この時、横顔に彼女の視線を感じた。
「う……、うん」
「ふーん」
僕はこの時、京子さんと二人きりで同じ空間にいたという余韻を、もう少し感じていたいという気持ちもあった。
そして、一緒に夜道を歩いている間、何度も告白しようと思ったが結局その勇気が僕には無かった。
京子さんと別れた後、僕は今まで経験した事が無い程、喉の奥までカラカラに渇いていて、すぐに自動販売機でジュースを買って一気飲みした。
その後、大学が別々になってしまったので疎遠になってしまったが(卒業式での告白も考えたが空振りに終わっていた)僕が鳴滝町の役場の職員になって図書館司書で働くようになってから、桃山幼稚園の保育士になっていた彼女と3年前に図書館で偶然出会った。
その時、僕は勝手に運命的なものを感じていたが、相変わらず何も行動を起こせずにいた。
ところが、去年まで図書館でパートをしてもらっていた照屋さんという女性がいて、彼女の娘と京子さんの通っていた短大が一緒で、しかも親友だった。
ある日、照屋さんの娘が、京子さんからずっと片思いをしている人がいるという話を聞き、それがどうやら図書館に勤めている人という事であった。
照屋さんが、図書館でパートをしている事を知っていた娘は、彼女に軽い気持ちでそれを言ってしまったらしい。
そして、照屋さんも翌日の朝にはビッグニュースとしてパート仲間に話してしまった。図書館には対象になりそうな男性が僕しかいないのもあって、確定情報として広まっていった。そして、その週の終わりには僕の耳にも入ってしまったのだが、もちろん京子さんはそれを知らない。
それからというもの、僕の周辺は勝手にヤキモキしているという現状だ。
もちろん、それを知ってしまった僕は、特に意識してしまっているのだが、これだけ周りに注目されてしまうと、元々奥手な僕は、益々動き辛くなっていた。
そんな時、年末に毎年行われる図書館の職員、パートによる忘年会があり、馬場さんから誘われた京子さんともう一人の桃山保育園の保育士が来ていた。ただ、結局この時の僕も、周りの好奇の目による恥ずかしさで、彼女とあまり話もせずに終わってしまった。
しかし、なんとか(馬場さんの強引な仲介もあって)メールアドレスの交換は出来たので、仕事上のメールのやり取りは何回かするようになっているのだが、彼女を食事に誘う機会も勇気も無く今に至っている。
「……大事にならなくて良さそうだね」
「うん、本当にありがとうね」
「いや、ところで、京子さ……」
「――本当に先生、どうもありがとうございました」
突然、診察室の横スライドの扉が開いて、加奈と母親が出てきたので、僕と京子さんは急いで立ち上がった。
「京子先生も、ありがとうございました」
母親は、待合室で待っていた京子さんに深くお辞儀をした。
「そして、えっと……」
「あっ、この方は、鳴滝町立図書館の長谷川さんです。今日、ここまで加奈ちゃんを車で乗せてきてくれました」
京子さんが、僕を母親に紹介すると母親は僕にも深くお辞儀をした。
「では、京子先生。今日はこのまま娘を連れて帰りますので」
「はい、分かりました」
そして京子さんは、加奈の前で屈むと、微笑みながら優しく話した。
「じゃあ、加奈ちゃん。お風邪しっかり治して、また保育園来てね」
「うん」
「じゃあ京子先生、すいません」
そう言うと、加奈と母親は、隣の調剤薬局に薬をもらいに病院を出ていった。
そして、僕は診察室にいる久世先生にお礼を言ってから、京子さんと病院を出た。
「さてと、図書館に戻ろうか」
「うん」
僕は、助手席に散らばっている伝票や本を急いで片付けると、彼女を助手席に乗せた。
図書館に戻る5分間、運転するハンドルを持つ手は、暑さのものではない汗を感じていた。二人きりの空間というのは、あの高校の図書室の時以来だった。
しかし、またここでも僕は何も進展させることが出来ずに、京子さんとの5分間のドライブは終わってしまった。
……この時の僕は、京子さんの保育園の園児が病気になっている一大事に不謹慎だろう、と自分自身を納得させていた。
僕が図書館の駐車場に車を止めると、京子さんは僕に言った。
「今日は、ありがとうね。長谷川さん」
僕は『さん』に戻った言葉に少し引っ掛かりながら「ううん、いいよ」と言って、車を降りた。
図書館に二人で戻ると、それをカウンターで見た馬場さんは、明らかに落ち着きがなくなり、作業室にいる『仲間』の元に階段を小走りで下りていった。
僕はそれを見て、やれやれといった感じでため息をついた。
こうして、保育園の園児たちの遠足は無事に終わり、京子さんも帰っていった。
園児たちを見送ると、すぐに馬場さんが僕に近づいてきた。
「あの……長谷川さん、さっきの……」
彼女が、そう言い掛けたところで「――何も期待することはないですよ」と、僕はぴしゃりと言って、そのまま事務室へと戻った。