第5話 本が可哀そう

文字数 2,798文字

 その事件は、ある大手新聞社の地方版の紙面に、小さく掲載された写真から始まった。

 それは、ある図書館の外壁に取り付けられた返却ポストから戻された本が、建物の中にある大きな返却ボックスの中で、無造作に溜まっている状態を撮影した写真だった。題名は『本がかわいそう 某町立図書館の現状』となっている。
 特徴的な赤レンガの建物は、明らかにこの鳴滝町立図書館である事を示していた。
 過去にも、この返却ポストの状況は度々問題になっていたが、ポストそのものが建物に付随しているので、出来る対策は限られていた。

 朝9時になると、予想通り主管の生涯学習部から電話が入った。吉田館長は、今日遅番であったが、朝自宅で新聞を読んでこの記事に気づくと、急いで出勤していた。

「――間野ですけど、館長いる?」

 今日の間野部長は、いつものような落ち着いた口調ではなく、少し早口だった。
「……はい、吉田です」
 吉田館長も、今日は軽口も言わずに緊張した面持ちで電話に出た。
「あっ、はい。じゃあ状況報告書作って、昼から、はい、分かりました」

 吉田館長は電話が終わると、上を向いて深いため息をついてから、視線を移して言った。
「写真って、そこの隣の窓から撮ったんだよね」
「そうみたいですね。誰も気づかなかったから、写真撮ったのはおそらく休館日でしょうね」
「とりあえず、隠すのも変だけどカーテンでもしようか。今日の新聞読んでから、興味半分で見にくる人がいるかも知れないから」
「――じゃあ、僕がホームセンターで買ってきますわ」
 いつもはのんびりしている横田さんが、そう言って大きな体を揺すりながら足早に出かけていった。

「あと……、状況報告書なんだけど、昼過ぎに役場に持っていかなくちゃいけないから、午前中に長谷川君まとめてくれる?」
「ええ、分かりました」

 ――図書館の返却ポストというのは、通常、図書館の外に本を入れる投入口があって、そこに本を入れると、ポストの開口部のローラーを滑り建物の中にあるボックスの中に溜まっていく。ボックスの底までは深さがあるので、どうしても本が落ちると損傷しやすくなる。
 本が溜まった状態というのは綺麗なものではなく、今回はその状態を、建物の外の見える場所から撮影されたようであった。

 箱の底板が最初は上の方にあって、本の重みで少しずつ沈んでいく荷重沈下式ボックスというものがある。しかし、数十万もする高価な物で、図書館でも購入を検討していた事はあったが、役場の財政部で却下されていた。

 図書館の状況報告書に添付する写真を撮る為に、カメラを持って図書館の外に出ると、既に新聞を読んだ何人かが携帯で返却ポストの写真を撮影していた。

 僕が図書館の職員用の出入り口から出てくると、写真を撮影していた人たちは、少し離れた場所に移動した。そして、僕が返却ポストの外観から撮影する場所を探していると、遠巻きに見ていた男性の一人が、突然言葉を発した。

「税金で買った本なんだからな、大切にしろよ」

「……すいません」

 僕は、内心の苛立ちを抑え(顔に出ないよう注意しながら)頭を下げると、写真を数か所撮影して館内に戻った。

 そして事務机に座ると、僕は小さくため息をついてから報告書の作成を始めた。
「去年だっけ? 荷重沈下式ボックスの見積り書をもらったの」
 ファイルされた資料を見ながら、吉田館長が僕に尋ねた。
「一昨年ですね。ああ、さっき業者さんに電話して、今日の日付にした見積書を午前中にメールしてもらえるように頼んどきましたよ」
「おー、ありがとう、それを持っていくわ。図書館でも何か対処法考えてますって言っとかないとね」

 すると、1階のカウンターから内線が入り、吉田館長が受話器を取った。
「はい、あ……っ、はい分かった。今から上がります」
 一瞬で沈んだ声に変わって吉田館長は返事をした。
「どうしました?」
「今日の新聞の件を説明しろって、ご老人が来てるってさ」

 そう言って、吉田館長はげんなりした様子で席を立ち、足が重そうに階段を上がっていった。
 僕がその後ろ姿を見ていると、隣の席で本の返却日を過ぎた利用者に、電話で督促をしていた吉岡さんも手を止めて「館長も大変ね、今日は」と気の毒そうな顔をした。

「そう言えば、さっき横山町の貝原さんからも電話があってね。返却ポストの裏側なんてどこも同じだよって言ってたよ。……でも、うちの新聞記事のおかげで、あそこの図書館荷重沈下式の予算が付きそうだってお礼言われたけどね」
 僕がそう言うと「お礼って、何それ」と言って吉岡さんは笑った。

 ――この地域では、司書同士の交流が定期的にある。今日は周辺の公共図書館の司書から既に3件の慰めの電話があった。吉岡さんも、僕の1年後に図書館へ配属になった図書館司書である。その為、司書同士の交流会には僕と一緒に参加している。

 暫くして、吉田館長が疲れた顔で階段を下りてきた。今日一日でどんどん皺が深くなる感じがした。
「報告書、机の上に置いときましたよ」
 僕は慰めるような優しい声で、吉田館長に報告した。
「あっ、ありがとう。じゃあ『丸ちゃん食堂』で定食を食べてから、そのまま役場行くわ」
 そう言って吉田館長は上着を着ると、封筒に入れた報告書を持って外へ出ていった。

 そして、いつものように12時からカウンターの業務を始めていると、顔見知りの老婦人が心配した様子で僕に話しかけてきた。
「今日の新聞見たけど、大変ね」
「すいませんでした」
「いやいや、まあ……ここも古い図書館だからしょうがないわよね」
「ええ、そうですね」

「あっ、そういえば、こないだ新しく出来た大崎町の図書館に行ってきたけど、すごかったわよ。なんか返した本がベルトの上を自動で運ばれて、仕分して箱に入っていったの。孫も大喜びだったわ」
「へえ、そうなんですか」
「まあ、でも鳴滝町は大崎町と違ってお金ないものね、役場新しくしたばかりだし。新しい図書館なんて、まだまだ先かな」
 そう言うと、老婦人は軽くお辞儀をして帰っていった。

 そして、僕がカウンター業務を終えて、休憩室で昼食を食べている時に、吉田館長が戻ってきた。
「どうでした?」
 田中副館長が、事務室で吉田館長に役場の様子を訊いているのが聞こえてくる。
「うん、まあそんなに大きな問題にはならないだろうって事だったけどね。ああ、それで、荷重沈下式ボックスとこないだの盗難防止のゲートは、来年度の予算で計上するって事になりそうだね」
「それは良かったですね」

 そして、横田さんが返却ポストの作業を終えて戻ってきた。
「簡単に出来るかと思ったけど、案外手間でしたわ。結局、カーテンだとレールが付かないから、ブラインドにしました」
「ああ、それはご苦労さんだったね」

 結局この件は、底を浅くする為に、ボックスに座布団を何枚か置いてしばらく様子を見ることになった。
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