第16話 本の保存
文字数 2,875文字
今日は、鳴滝町の図書館が年2回実施している蔵書点検の日。この日は通常の休館日とは別の日に、整理休館日として、図書館の職員とパートがほぼ全員出勤して蔵書点検作業をする。
――蔵書点検作業とは、図書館の本があるべき場所にあるかどうかを確認して、行方不明のものがないかを点検する作業の事を言う。
図書館にある約20万冊全ての本を確認しなければいけないので、なかなかの重労働だ。さすがに1日で終わらせるのは困難なので、平日の開館中から少しずつ作業を始めて、整理休館日に全員出勤して午後5時までに全て終わらせる事になっている。
担当の場所が決まっているので、今日はみんな、自分に割り当てられた場所で朝から黙々と作業をしていた。
今日は、年2回しかない職員のいる休館日なので、蔵書点検の他にも、館内の清掃や図書館システムの更新、家具の補修や入れ替え等で業者の出入りが多くなっている。
僕は、自分の作業の担当を持ちながら、全体の進捗状況の確認や、出入りする業者との打ち合わせ等もやらなければいけないので、今日は図書館内を動きっぱなしの忙しい1日だ。
この時も、昼から来る業者との電話での打ち合わせを終えて、1階への階段を上がっていく途中で、閉架書庫にいたパートの日下部さんに呼び止められた。
「あの、長谷川さん」
「あっ、はい」
「なんか、半年前に見た時より、本に着いた粉みたいなのが増えてる場所があるんですけど」
「え……っ、それはまずいですね。どこですか?」
僕は1階への階段の途中から、地下に戻って日下部さんと閉架書庫に入っていった。
「この書架を空けた奥の下の方の段です」
そう言って、日下部さんは電動式の集密書架のボタンを押すと、書架が左右に動き始めた。そして二人で開いた書架の間の通路を進んでいくと、一番奥から2番目の書架までの範囲で本に粉のようなものが大量に付着している場所があった。
「これは、カビですね、範囲が広がるとまずいので、とりあえずこの辺りの本をダンボールに入れましょうか」
「はい」
「ちょっと待ってください。確か、去年買ったマスクとビニール手袋あったはず」
日下部さんが書架に入りかけた所で止めて、僕は事務室に戻って壁面キャビネットの中を探した。
「あった、ありました。これ使ってください」
僕は、日下部さんにマスクと手袋を渡すと、もう一度事務室へ戻り、カビの除去などを行う専門業者に電話をかけた。業者は、夕方には様子を見に来てくれる事になった。
そして、僕も時間が空くと、閉架書庫に入り作業を始めた。書架の棚数で12棚分の本を、持ってきたダンボール箱に入れていく。後で戻しやすいように、1棚につき2箱ずつ使用して番号を振っていくと箱は24箱になった。
元々、うちの閉架書庫の湿度は高いが、集密書架の奥の方は空気が籠ってしまって更に高く感じる。しかも、湿気は下の方に溜まるので、今回カビの生えた本は全て書架の下の段にあった。
以前、僕が図書館で勤め始めて間もない頃、同じように本にカビが生えた事があった。朝、それを発見した時、僕は慌てて家田さんに報告した。
「そっか、今年はカビが生えちゃったか」
家田さんは残念そうにそう言うと、事務室からマスクとビニール手袋を持って、閉架書庫に入っていった。
そして、マスクとビニール手袋を僕に手渡して、自分も手袋とマスクをつけた。そして、慣れた手つきで、カビの生えた本を1冊ずつ選別し始めた。
「長谷川君、作業室からダンボールもってきてくれるかい」
「はい」
選別が終わり、ダンボール箱にカビの生えた本を詰め終わると、家田さんはそれを台車に載せた。
「ちょっと、水分が多くてしっとりしてる本があるから、一度外で乾燥させてから後でエタノールでカビを拭きとろう」
そう言って、家田さんは図書館の裏の空き地にダンボール箱を運び、持ってきたビニールシートの上にそれを並べた。
「今日は、天気良いから夕方まで乾燥させておこう」
一通りの作業を終えて閉架書庫に戻ると、家田さんは僕に言った。
「長谷川君、せっかくだから教えてあげよう」
「ええ、お願いします」
「書庫の湿度ってどれくらいが適当か分かるかい?」
「うーん、50パーセントくらいですか?」
「うん、まあ、それでも正解だけど、大体60パーセント以下だな。それで、温度は25度以下で、温度は安定させる事が大事だ。温度の変化でカビ菌が活性化する」
「そうなんですね」
「ここはね、この書架と奥の壁に全然、隙間がないだろ?」
そう言いながら、家田さんは、書架の奥の方に歩き出した。
「そうですね」
「奥の壁に触れてきてみな」
僕が、奥の壁に触れるとしっとりした感触だった。
「なっ、それが結露って言うんだ」
「そうか、これが……」
「ここは、建物の壁が一つしかないから、外の寒い外気が壁に伝わって、中の暖かい空気で結露になってしまうんだよ。逆もあるよね。外が暑くて中は冷たい」
「そうですね」
「それで、書架との距離も近いし、湿気が籠ってしまう」
「そうなんですね」
「そんな危ない状況で、今みたいに冬だと、職員がいる間は暖房つけて、帰る時に切るから、温度の変化でカビが活性化しやすくなってしまう。まぁ、この図書館は建物でたいした除湿対策もしてないから、年がら年中いつ起きてもおかしくないけどね」
この日の家田さんは、饒舌に笑みを浮かべながら話していた。
「さて、今空中にもカビの胞子が飛んでるから、この辺の棚をエタノールを含ませたペーパータオルで拭いていこう」
そう言うと、家田さんはペーパータオルを手に取って、僕の分を渡すと、自分も棚を拭き始めた。
後から分かった事であったが、家田さんは、『文化財虫菌害防除作業主任者』の資格を持っていたそうだ。当然、役所から費用が出る筈もなく、自己負担で3日間の講習と試験を受けて所得したと聞いた。
昔、図書館でカビが生えた時、家田さんは一人でいろいろな本を読んで研究しているうちに取ってみようと思いついたらしい。
だからこの時、僕に説明していた時の家田さんが熱心だったのも、今までこうした知識を教える相手がいなかったこともあったのかもしれない。
その時、家田さんから教わった、換気をよくする為に集密書架の通路を均等に広げたり、扇風機をサーキュレーター代わりにして、通気を良くすることは、今でも実行している。
この時、僕は作業をしながら、家田さんとのやり取りを思い出していた。本を取り出して、空になった棚を1段ずつ消毒用のエタノールを含ませたペーパータオルで綺麗に拭いてから、カビの生えた本を入れたダンボールを、外の空き地に運んだ。
「日下部さん、一旦このまま置いといて、後は業者さんと相談します」
「はい、じゃあ後はよろしくお願いします」
「はい」
今は、図書館のカビの問題も役所に認知されて、本の保存対策費用として年間の予算が付いているので、業者にお願いすることが出来た。
でも、家田さんの頃は、自分一人で資格まで所得してやっていた事を考えると、改めて家田さんの苦労を偲んだ。
――蔵書点検作業とは、図書館の本があるべき場所にあるかどうかを確認して、行方不明のものがないかを点検する作業の事を言う。
図書館にある約20万冊全ての本を確認しなければいけないので、なかなかの重労働だ。さすがに1日で終わらせるのは困難なので、平日の開館中から少しずつ作業を始めて、整理休館日に全員出勤して午後5時までに全て終わらせる事になっている。
担当の場所が決まっているので、今日はみんな、自分に割り当てられた場所で朝から黙々と作業をしていた。
今日は、年2回しかない職員のいる休館日なので、蔵書点検の他にも、館内の清掃や図書館システムの更新、家具の補修や入れ替え等で業者の出入りが多くなっている。
僕は、自分の作業の担当を持ちながら、全体の進捗状況の確認や、出入りする業者との打ち合わせ等もやらなければいけないので、今日は図書館内を動きっぱなしの忙しい1日だ。
この時も、昼から来る業者との電話での打ち合わせを終えて、1階への階段を上がっていく途中で、閉架書庫にいたパートの日下部さんに呼び止められた。
「あの、長谷川さん」
「あっ、はい」
「なんか、半年前に見た時より、本に着いた粉みたいなのが増えてる場所があるんですけど」
「え……っ、それはまずいですね。どこですか?」
僕は1階への階段の途中から、地下に戻って日下部さんと閉架書庫に入っていった。
「この書架を空けた奥の下の方の段です」
そう言って、日下部さんは電動式の集密書架のボタンを押すと、書架が左右に動き始めた。そして二人で開いた書架の間の通路を進んでいくと、一番奥から2番目の書架までの範囲で本に粉のようなものが大量に付着している場所があった。
「これは、カビですね、範囲が広がるとまずいので、とりあえずこの辺りの本をダンボールに入れましょうか」
「はい」
「ちょっと待ってください。確か、去年買ったマスクとビニール手袋あったはず」
日下部さんが書架に入りかけた所で止めて、僕は事務室に戻って壁面キャビネットの中を探した。
「あった、ありました。これ使ってください」
僕は、日下部さんにマスクと手袋を渡すと、もう一度事務室へ戻り、カビの除去などを行う専門業者に電話をかけた。業者は、夕方には様子を見に来てくれる事になった。
そして、僕も時間が空くと、閉架書庫に入り作業を始めた。書架の棚数で12棚分の本を、持ってきたダンボール箱に入れていく。後で戻しやすいように、1棚につき2箱ずつ使用して番号を振っていくと箱は24箱になった。
元々、うちの閉架書庫の湿度は高いが、集密書架の奥の方は空気が籠ってしまって更に高く感じる。しかも、湿気は下の方に溜まるので、今回カビの生えた本は全て書架の下の段にあった。
以前、僕が図書館で勤め始めて間もない頃、同じように本にカビが生えた事があった。朝、それを発見した時、僕は慌てて家田さんに報告した。
「そっか、今年はカビが生えちゃったか」
家田さんは残念そうにそう言うと、事務室からマスクとビニール手袋を持って、閉架書庫に入っていった。
そして、マスクとビニール手袋を僕に手渡して、自分も手袋とマスクをつけた。そして、慣れた手つきで、カビの生えた本を1冊ずつ選別し始めた。
「長谷川君、作業室からダンボールもってきてくれるかい」
「はい」
選別が終わり、ダンボール箱にカビの生えた本を詰め終わると、家田さんはそれを台車に載せた。
「ちょっと、水分が多くてしっとりしてる本があるから、一度外で乾燥させてから後でエタノールでカビを拭きとろう」
そう言って、家田さんは図書館の裏の空き地にダンボール箱を運び、持ってきたビニールシートの上にそれを並べた。
「今日は、天気良いから夕方まで乾燥させておこう」
一通りの作業を終えて閉架書庫に戻ると、家田さんは僕に言った。
「長谷川君、せっかくだから教えてあげよう」
「ええ、お願いします」
「書庫の湿度ってどれくらいが適当か分かるかい?」
「うーん、50パーセントくらいですか?」
「うん、まあ、それでも正解だけど、大体60パーセント以下だな。それで、温度は25度以下で、温度は安定させる事が大事だ。温度の変化でカビ菌が活性化する」
「そうなんですね」
「ここはね、この書架と奥の壁に全然、隙間がないだろ?」
そう言いながら、家田さんは、書架の奥の方に歩き出した。
「そうですね」
「奥の壁に触れてきてみな」
僕が、奥の壁に触れるとしっとりした感触だった。
「なっ、それが結露って言うんだ」
「そうか、これが……」
「ここは、建物の壁が一つしかないから、外の寒い外気が壁に伝わって、中の暖かい空気で結露になってしまうんだよ。逆もあるよね。外が暑くて中は冷たい」
「そうですね」
「それで、書架との距離も近いし、湿気が籠ってしまう」
「そうなんですね」
「そんな危ない状況で、今みたいに冬だと、職員がいる間は暖房つけて、帰る時に切るから、温度の変化でカビが活性化しやすくなってしまう。まぁ、この図書館は建物でたいした除湿対策もしてないから、年がら年中いつ起きてもおかしくないけどね」
この日の家田さんは、饒舌に笑みを浮かべながら話していた。
「さて、今空中にもカビの胞子が飛んでるから、この辺の棚をエタノールを含ませたペーパータオルで拭いていこう」
そう言うと、家田さんはペーパータオルを手に取って、僕の分を渡すと、自分も棚を拭き始めた。
後から分かった事であったが、家田さんは、『文化財虫菌害防除作業主任者』の資格を持っていたそうだ。当然、役所から費用が出る筈もなく、自己負担で3日間の講習と試験を受けて所得したと聞いた。
昔、図書館でカビが生えた時、家田さんは一人でいろいろな本を読んで研究しているうちに取ってみようと思いついたらしい。
だからこの時、僕に説明していた時の家田さんが熱心だったのも、今までこうした知識を教える相手がいなかったこともあったのかもしれない。
その時、家田さんから教わった、換気をよくする為に集密書架の通路を均等に広げたり、扇風機をサーキュレーター代わりにして、通気を良くすることは、今でも実行している。
この時、僕は作業をしながら、家田さんとのやり取りを思い出していた。本を取り出して、空になった棚を1段ずつ消毒用のエタノールを含ませたペーパータオルで綺麗に拭いてから、カビの生えた本を入れたダンボールを、外の空き地に運んだ。
「日下部さん、一旦このまま置いといて、後は業者さんと相談します」
「はい、じゃあ後はよろしくお願いします」
「はい」
今は、図書館のカビの問題も役所に認知されて、本の保存対策費用として年間の予算が付いているので、業者にお願いすることが出来た。
でも、家田さんの頃は、自分一人で資格まで所得してやっていた事を考えると、改めて家田さんの苦労を偲んだ。