第30話 地域のつながり

文字数 4,175文字

 2017年3月12日、僕と京子が付き合いを始めてから、まもなく1年半になろうとしていた。最近では、二人の会話の中にも結婚を意識した言葉が出ている。それよりも、お互いの母親同士がその気になってしまい、勝手に話を進めてしまう状況になっていた。ただ、僕も京子もそれならそれで良いかという感じだった。

 そして今日、僕は京子やお互いの母親に背中を押されるようにして、京子の父である間野さんに様子を窺いに来ている次第だ。
「……新しい図書館の計画の方はどう? 順調かね」
 先ほどから、間野さんは日本酒を飲みながら気分良く話をしている。その様子から、田中さんが亡くなった悲しさから少しずつ回復しているように思えてほっとした。
「加藤館長も大変そうです。議員さんからの質問も多いらしくて、最近はずっと役場の3階の廊下で待機してますよ」
「そうか、今議会中か」
「ええ、そうです」
「まあ、図書館の建設なんて言ったら、唯一町民の理解が得られる建物だから、議員も町長も必死だよな」
 間野さんは笑いながらそう言うと、日本酒を一口飲んだ。
「そういうもんですかね」
「それに、議員の先生方が絡むと綺麗事じゃない部分もあるからね。……まっ、これ以上はやめとこう、また難しいこと言い出したら、天国から修ちゃんに怒られちゃうから」
 間野さんはそう言うと、田中さんに乾杯するかのようにお猪口を上にあげてからグイッと飲んだ。

 今日ここに来る前に、僕は酒屋で間野さんの好きな『神亀』の一升瓶と僕用のハイボールを3本買ってきた。
 間野さんからは、もう注ぎ合うのは止めようと言われていたので、彼は空になったお猪口に自分で注いでいる。
 京子と母親は、さっきから台所で夕食とつまみを作ってくれていた。僕が来た時には、既にヤリイカと大根の煮物がテーブルの上に前菜のように置かれていた。

「これは、昨日東京湾で釣れたヤリイカなんだよ」
「へえ……、そうでしたか」
「昨日の夜ずっと釣ってたから、まだ眠くてね」
「すいません、こんな時に」
「いやいや、いいんだよ。気持ち良く寝れるよ、おかげで」
「それで僕たちの……」
「ああ、その件なら良いよ。もう君たちと妻に任せてるから」
「あ……っ、ありがとうございます」

 この時、僕は今日の重要なミッションを終えてほっとした気持ちになった。これからは、美味しくハイボールとイカの料理が楽しめる気がした。
「うん、有難いくらいだ。君に京子を貰ってもらえるなら」
「いえ……」
「ただ、仕事の方は気を付けなよ。君は……、少し真っ直ぐな所があるからね。父親として心配だ」
 間野さんは、小声でそう言うと微笑んだ。

 そして、京子がヤリイカの姿煮を持ってきた。
「イカづくしで悪いね。昨日釣り過ぎたわ」
「うちは僕も含めてみんなイカ料理好きなのでうれしいです」
「あ……っ、そうだ。今日は帰りに持って行ってね、イカ」
「ええ、ありがとうございます。頂いていきます」
 僕は内心、明日から我が家でもイカ料理づくしになるだろうな、とこの時思った。

 そして、京子と母親も加わって、しばらく4人で食事をした。この時、京子と母親の安心した様子を見ると、僕の訪問目的は十分に達成できた気がした。

「それにしても、加藤君の家、また大変らしいね」
 食後に二人でリビングに移動すると、ソファーに座りながら間野さんが言った。
「え……っ、そうなんですか?」
「あっ、聞いてなかったか」
「ええ、ご本人からは何も」
「そうか。お母さんの認知症の徘徊が、最近特にひどいみたいでね」

 ……間野さんの話によると、加藤館長のお母さんは、最近では昼夜関係無く家を出てしまうらしい。加藤館長の奥さんも介護の疲れで精神疲労になってしまい、加藤館長の負担も大きくなっているという事であった。
「そうでしたか、僕も少し注意して見てるようにします」
「うん、頼むよ。彼も生真面目だから、無理してんじゃないかと心配しててね」
「はい、分かりました」
 そしてこの日の僕は、当初の目的は無事達成して京子の運転する車で帰宅した。


 それから、2週間ほどしたある日、僕が図書館内を回ってから事務室へ戻ってくると、加藤館長が慌てた様子で声をかけてきた。
「長谷川君。ちょっと、悪いんだけど、今日はもう失礼するよ」
「分かりました。なんかやっておく事ありますか?」
「あっ、それじゃあ、この書類を吉田部長の所に届けといてくれる?」
「はい、了解しました」
「じゃあ、悪いね」
 そう言うと、加藤館長はコートを持って小走りに事務室を出ていった。

「どうしたんですかね、加藤館長があんなに慌ててるのも珍しい」
 一緒にその状況を見ていた園部さんが、そう言って心配そうな顔をした。
「そうですね」
 この時、僕は間野さんに先日言われた事を思い出した。

 その日の夕方、僕が役場の生涯学習部から戻ってくると、近藤さんが慌てた様子で僕に言った。
「あっ、ちょうど良かった、長谷川さん。今、この本を持ったまま図書館を出ていこうとした老人に、声をかけたのですが……」
「ええ」
「なんか意味不明な事を言ってるんですよ。警察を呼んだ方が良いですかね」
 そう言って、彼は僕に1冊の本を手渡した。B四
「分かりました」

 近藤さんがそう言って事務室を出ていくと、しばらく時間が経ってから、老婦人を連れて階段を降りてきた。彼の顔には疲れた様子が浮かんでいる。大分、この老婦人をこの場所まで連れてくるのに苦労したようだ。

「こちらへどうぞ」
「健人の本を返してもらっただけなんだよ」
 老婦人はそう言いながら階段を上がろうとしている。
「まあまあ……、少しお話を聞くだけですので」 
 近藤さんは、なんとかなだめながら、老婦人を部屋に案内した。すると、彼女は観念したのか、ようやく大人しくなった。
「図書館職員の長谷川です」
「……」
「お婆ちゃん、この本は図書館の本なんだよ、分かるかな?」
「……」
 僕が会議室から出ると、近藤さんが立っていた。
「ダメっぽいですね」
「そうだね、警察に来てもらおうか。多分、認知症だと思う。県警の佐藤さん呼んでくれる?」
「はい、分かりました」
 事務室へと入っていく近藤さんを見ながら、僕はふと思い付いた。

「あ……っ、ひょっとして」

 僕は、近藤さんに警察への電話を一旦止めてもらってから、自分の携帯電話を取り出すと、加藤館長に電話を掛けた。
「はい、加藤です」
「長谷川です。すいません、お休み中に」
「いや、どうした?」
「それが……」
 僕は、加藤館長に今日のここまでの経緯を説明した。
「そうか、そこにいたか。今日は朝からずっと行方知れずで探してたんだ」
「そうでしたか」
「うん、じゃあ今から行くから、少しの間、母親見ててくれるか?」
「はい、分かりました」

 そして僕が事務室を出ると、会議室の前で加藤館長の母親が出ていこうとするのを、近藤さんがなんとか押しとどめていた。
「少し、もう少しお待ちください」
「もう、いいでしょ。本を返してください、息子が待ってるので帰らなくちゃ」
「すいません、加藤さん。この本の事教えてもらえませんか?」
 僕は彼女を刺激しない様に、ゆっくりと落ち着いた口調で話しながら『全国の電車図鑑』を見せた。
「あっ、それそれ。早く返して」
「えっと、健人君は僕の友達なんです。この本の事で彼と話がしたいんです」
「あ……っ、そうなの。健人の友達なのね。分かったわ、じゃあ少しなら」

 そう言うと、彼女は会議室の椅子に座り、本についての説明を始めた。
 しばらくして、職員用の駐車場に車が停まり加藤館長が小走りで入ってきた。
「ああ、ごめんな。ありがとう」
「いえ、会議室にいらっしゃいます」
 近藤さんから聞いて、加藤館長は黙って頷くと会議室の入り口の前に立った。
「このブルートレインってのはね、健人がとても好きな電車で……」
「――ほら、母さん、帰ろ」
「本あったよ」
 母親は、嬉しそうに『全国の電車図鑑』の本を指さして加藤館長を見た。
「これは……?」
「この本を、探してたみたいです」
「そうか、この本だったか」
 加藤館長は、本を見ると何かに気づいた様子だった。
「加藤館長、今日はこの本、持って帰ってください」
「うん、そうだな」
 加藤館長は、僕から本を受け取ると、母親の手を取って図書館を出ていった。

 
 翌日の朝、僕が図書館の事務室にいると、加藤館長が出勤してきた。
「それにしても、良く分かったな、俺の母親だって」
 通勤鞄を机に置くと、加藤館長は穏やかな声で僕に言った。
「持っていた電車の本を、健人のだって何度もおっしゃってました」
「そうか」
「それに少し前、加藤館長が休日に遠方まで電車に乗りに行く程、電車が好きだって聞いておりましたので」
「そうか、俺のつまらん雑談を良く覚えていてくれたわ」

「いえ……、でもこの本に何か思い入れがあったんですか?」
 僕は、そう言って『全国の電車図鑑』を手に取った。
「うん、俺は小学校の時に、少し……いじめにあって、不登校になった時期があったんだ。その時に、母親が読んでくれた本でね」
「そうでしたか」
「この本を見せながら、まだお前が見てる世界なんてほんの一部なんだよって言われてね。それで、これからこの電車に乗っていろんな場所に行ってどんどん世界が広がっていくんだから、こんな狭い小学校なんかで、くよくよしてんじゃないって、教えられたんだ」
「なるほど」
「多分、母親の記憶のどこかに、その時の思い出が残ってたんだろうね」
「ええ、そうですね」

「最近、気づいたんだけどね。どうも母親は、昔の俺との思い出の場所を巡ってるようなんだ。恐らく今の彼女に見えてるのは、子供の時の俺との光景なんだろうなって思うんだよ」
 そう話すと、加藤館長の目はみるみる赤くなっていった。彼はそれを隠すかのように椅子を回転させると、窓の外を見るようなしぐさをしていた。

「やっぱ、鳴滝町のような田舎の図書館には、地域の繋がりは必要だよな」

 しばらくして、椅子を戻すと加藤館長はぽつりと僕に言った。
「そうですね、地域によっていろいろあるでしょうから、民間に任せちゃうのも決して悪くはないと思いますが、鳴滝町ではこういった部分は残して欲しいですね」
「うん、そうだな。その通りだよ、長谷川君」

 加藤館長はそう言うと、初めて僕に優しく微笑んでくれた。
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