第19話 修ちゃんと隆三 

文字数 4,697文字

 ミーティング室で行われていた吉田館長の説明が終わり、パートの近藤さんがカウンターに来たので僕は事務室へと戻った。その時、すれ違うパート達は、みな一様に強張った顔で、口数も少なくなっていた。
 机に座っている吉岡さんを見ると、不機嫌そうに黙っているが、吉田館長に話したところでどうしようもない事は分かっているはずだ。
 吉田館長は、一見冷静に書類に目を通しているようだが、先日の会話で内情を知る僕としては、吉田館長の心中は痛い程伝わってくる。

 僕が、遅番の吉田館長や横田さんに挨拶をして、裏口の職員専用の出口から出ると、田中副館長が立っていた。その横を、吉岡さんがお辞儀だけして無言で帰っていった。
 今日の僕は、いつものような軽口を言えるような様子でもないので、田中副館長に挨拶だけをして、通り過ぎようとした。

「――あっ、長谷川君」

 すると、僕は田中副館長に呼び止められた。
「はい」
「今日、ちょっと1杯だけでいいから付き合ってくれんかな」
 田中副館長はお酒を飲む仕草をしながら言った。
「あ……っ、はい。いいですよ」

 僕は特に用事もなかったし、今日は付き合わないといけないなと思い、すぐに了解した。そして、二人で自転車に乗って10分程行った先にある、老婦人の姉妹でやっている小さな居酒屋『みゆき』に向かった。その間、僕に気を使わせない様にしているのか、田中副館長はいつものように、軽い調子で京子さんの事を根掘り葉掘り訊いてきた。

 自転車を店の脇に止めると、暖簾をくぐって、カウンターだけの小ざっぱりした店の中に入る。
 いつもは軽口で迎える女将も、今日の田中副館長の普段とは違う様子に気づき、少し抑えた感じで挨拶をすると席を勧めた。
 僕と田中副館長が席に座ると、彼は瓶ビールを頼んでから料理はお任せにした。この店はお任せにすると、一人2千円分の手料理を出してくれるのだが、好き嫌いが無ければお得なセットだ。ただ、好き嫌いの多い吉岡さんや横田さんが一緒に来ると、このセットは頼めない。

「悪いね、急に誘っちゃって」
「いえ……、いいですよ」
 そして、田中副館長は瓶ビールを女将から受け取ると、僕に注いでから自分の分を注いだ。そして、軽くグラスを合わせると、普段はやらない事だが今日は一気にビールを流し込んだ。僕は彼のグラスにビールを注ぎながら、田中副館長のやるせなさを感じていた。

 そして、彼はぽつりと言った。
「まあ、分かってた事だけどね……」
「……はい」
「でも、パートさんも気の毒だけど、まさか僕もだとはね。予想以上に本気だったね、間野部長は」
「え……っ?」
「――あっ、そうか。これは知らなかったか。来年度、僕は図書館では嘱託職員が出来ないみたいなんだ。吉田館長は掛け合ってくれてるみたいなんだけど……、何処かの公民館か、学校の用務員くらいないかとね」
「そうでしたか」

「まぁ、正直うすうす気づいてたけどね、私も一応管理職だし……。タイミング悪いなってね。委託業務が始まっちゃうって事は、もめ事の元だから古株はなるべく減らしたいわけよ。……上はね」
 そう言うと、田中副館長は僕のグラスにビールを注いで、空いたビール瓶をカウンターの台の上に載せて「京ちゃん、もう1本頂戴」と女将に頼んだ。

「君は、冷静な判断が出来る人間だと思うけど、吉岡さんが心配だね」
「そうですね……」
 そうして、肉じゃがを盛り付けた小鉢が目の前に置かれるのを見ながら僕が言った。
「ただ公共図書館の民間企業の受託については、最近失敗例も出てますけどね。委託業務をやめちゃう図書館も出始めてるようです」
「らしいね。まぁ、でも役場なんていっても、所詮トップダウンだからね。特にうちみたいな田舎の役場はさ。トップが良いって言えば良いんだよな。まぁ、どっかの誰かが入れ知恵してんだろうけどね」
 そう言って、田中副館長は苦笑いをした。
「そうですね」
 僕も釣られたように苦笑いをして、女将からビール瓶を受け取ると、田中副館長に「どうぞ」と言って、ビールを注いだ。

「まあ、俺と同じで間野部長も3月で終わりだしな」
「そうでしたね」
「――あっ、そう言えば……」
「はい」
「君のお義父さんになるかも知れないから、余計な事かも知れないけど少し教えてあげようかな」
 そう言うと、田中副館長はグラスに入ったビールをぐいっと飲んだ。
「あ……っ、はい。お願いします」
「僕と間野部長は、小学校からずっと同級生でね。大学までずっと同じ学校で一緒だったんだ。埼玉大学の教育学部までね」
「そうだったんですね」
「うん……、だからなんか君と京子ちゃんの事も他人事とは思えなくてね。それで、君にも色々訊いてたんだよ。しつこいくらいにね」
 そう言って、田中副館長は微笑んだ。
「ほんとに、しつこかったですよ」
 僕もそう言って微笑んだ。
「悪かったよ」
 そう言って、田中副館長は僕にビールを注ぐ。

「役場の中では、あいつはどんどん出世しちゃうもんだから、最近はちょっと疎遠になってたけどね」
「そうなんですね」
「ただ、年末の行事で会った時には、もうお互い退職したら、上も下も無くなるからのんびり旅行でも行くかって話してたんだよな。まぁあいつもあの時、今回の事も分かってたんだろうけど」
「そうでしたか」
「だから多分、あいつなりに苦しんだんだと思うんだ、今回の事はいろいろと」

 僕は以前、生涯学習部で吉田館長と業務委託についての話をした時の間野部長を思い出しながら頷いた。
「まぁ、だから今回は黙って受け入れてやるつもりだよ。あいつには貸しだぞって言ってやるけどね」

 僕がこの時、間野部長と田中副館長の知らなかった関係を興味を持って聞いていると、居酒屋の木製の引違の扉が開いて、冷たい風が入ってきた。
「ああ、いらっしゃい」
 女将が笑顔で入り口を見たので、釣られたように見ると、そこに立っていたのは間野部長だった。
「あっ、呼んでねえやつが来ちゃったわ。今日はもう敬語使わねえぞ」
 間野部長に気づくと、田中副館長が悪態をついた。
「ふっ、いいよ。修ちゃん」
 間野部長は笑いながら、田中副館長の隣の一番奥の席に座った。

「図書館に電話したら、吉田さんが二人で帰ったって言ったから、ここだろうなと思ってな」

 そう言って、僕と田中副館長を交互に見ると、間野部長は女将に「熱燗頂戴。お猪口は……」と言って僕を見たので「すいません、僕はビールで」と答えると「じゃあ、お猪口2個で」と言った。

「――俺も、ビールしか飲まねえぞ」
「まぁまぁ、今日は付き合えよ。修ちゃん」
 そして、間野部長は出てきた熱燗を受け取ると、田中副館長にお猪口を持たせて「ほらっ」と燗酒を少し強引に注いでから、自分の分を注いだ。

「それで? なんのようだよ、隆三」
「修ちゃんと飲みたかっただけだよ」
「ふん」
 そう言って、田中副館長は横を向いた。
「そう、拗ねんなって。今、吉田さんと一生懸命どうするか考えてるんだからさ。……紙芝居も出来るように」
「俺の事は、どうでもいいんだよ。可哀そうなのは、パートのおばちゃんたちだよ」
 田中副館長がそう言うと、間野部長は僕をちらっと見てから、声を落として言った。
「それも、なんかいい方法ないか考えてるところだよ。採用を委託業務の入札の条件にするとかね。でも長谷川君、これは……、これだからな」
 そう言って、間野部長は僕に指で口を閉じる仕草をしたので僕は頷いた。
「大丈夫だよ、この子は良く出来た子だわ。うちの子にも見習わせたいわ。大学卒業したかと思ったらぶらぶらしやがって」
「ははは、それ言っちゃあ達也君が可哀そうだぞ。東京の一流大学出てんだから」

「……ふん。この長谷川君はね、これからの鳴滝町の生涯学習行政を背負っていける人材なんだよ」
 そう言うと、田中副館長は僕の肩を軽く2回叩いた。
「ふふふ、そうか、そうか」
 間野部長は、田中副館長に微笑みながら相槌を打つと、僕を見て話した。
「ただね、長谷川君。今回の件もだけど、これから上に行けば行くほど、役場の都合ってのが分かってくる。修ちゃんみたいに、そういうのが煩わしいって組織から逃げちゃう人もいるけど、そういうのを忖度して調整したり、時には目をつむる事も必要になってくるからね」
「あ……っ。はい、分かりました」

 間野部長は、確かめるよう僕の目を見ると、笑いながら言った。
「あはは、まだちょっと早かったか。難しい事言っちゃったね」
「まだ20代だぞ。長谷川君にはまだ早いわ」
 田中副館長が、間野部長に燗酒を注ぎながらそう言うと「まぁ、そうだね」と言って、もう一度笑った。

「まぁ……長谷川君は、これから隆三といろいろと話す機会が増えるだろうから、その時に訊けばいいわ」
 田中副館長は、正面を見て、口元に笑みを浮かべながら意味ありげに呟いた。
「ん? 何のことだい、修ちゃん」
 間野部長は、そう言って田中副館長に顔を近づけた。
「あ、ああ……、田中副館長は今日だいぶ酔っ払ってますね」
 僕が慌てて間に入ると、田中副館長は黙ってお猪口を口に運んだ。

「あっ、そう言えば、教育委員会でも話題になってたよ。長谷川君」
 間野部長は、思い出した様子で言った。
「えっ、何がですか?」
「大村小学校の吉井君から報告があって、不登校児の件で解決するのにいろいろ協力したそうだね」
「大したことしてないですよ。たまたま図書館に来た男の子の話を聞いたあげただけです」
「いや、問題のある子供に心を開かせて、話を聞けるようにしただけでも、大したもんだ」
「いえ……」

「おっと、ちょっとトイレへ……」
 そう言って、間野部長は席を立った。僕は、間野部長がトイレに入っていくのを見届けてから、田中副館長に言った。
「それにしても、間野部長の様子は普段と全然違うんですね」
「うん、そうだね。もう、俺は長い付き合いだから良く知ってるけどね。……まぁ、いい奴だわ、仕事から離れるとな」
「はい」
「あいつは、昔から真面目な奴だったけど、頭が良くて要領もいいんだよな。だから、今じゃあ鳴滝町役場の中でも、町長、副町長入れてもトップファイブの一人だし、大したもんだよ。……でも、これでようやく昔のように、普通の関係に戻って付き合っていけると思うと楽しみだわ」
 田中副館長は、そう言うと穏やかに笑った。

「それに、今日は田中副館長を心配してわざわざ来て……」と僕が言うと、田中副館長は即座に否定した。
「――とんでもない。今日の目的は俺じゃないわ。君に会いに来たんだよ」
「え……っ」
「俺としゃべりに来たんじゃないよ。長年の付き合いだから分かるわ。君を心配して来てんだよ。役場でも何かあったんだろ?」
「あ……っ、はい」

 そして、間野部長がトイレから出てくると、田中副館長が席を立って言った。
「さて、帰るかな。明日も仕事だ」

 そして、この日の会計は、間野部長が出してくれた。
 木製の引違の扉を開けて、暖簾をくぐって外に出ると、僕は間野部長にお礼を言って頭を下げた。
「分かってると思うけど、自転車に乗って帰っちゃダメだからな」
 間野部長は、そう言って田中副館長と僕を交互に見た。
「店出たら、急に上司面しやがって……、はい分かりました。間野部長様」
 田中副館長は、おどけた様子で言ってお辞儀をした。
 間野部長は、その様子を笑って見ながら、僕の近くに寄ってきてささやいた。

「なんか、個人的に話があるんだろ? ……そろそろ、うちに来なさい」

 そうして、優しく微笑むと、僕に背を向けて歩き出した。
 この時、田中副館長もその様子を見て、嬉しそうに頷いていた。

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