第27話 思い出の本  

文字数 4,237文字

 朝夕の風に少しずつ秋を感じるようになった9月のある日、僕が出勤すると、事務室で加藤館長と園部さんが話をしていた。

「……昨日の方が、またお見えになって」

「申し訳ないが、やっぱりこれは図書館の業務ではないな、近くの本屋にでも行って、探してもらうように言ってもらえるかな」
「そうですね。では、お断りします」
「うん。悪いね」
 加藤館長にそう言われると、園部さんは事務室を出ていった。僕は少し気になったので、後を追って1階のカウンターへと向かった。

 カウンターの横には婦人が一人立っていて、園部さんと話をしている。僕が園部さんを呼ぶと、彼は話を止めてこちらへ近づいてきた。
「どうしたの?」
「何か、本を探してるらしくて」
 園部さんはそう言って困っている様子だった。
「検索できないの?」
「なんか、題名とか著者名も分からなくて情報が漠然としてるんですよね」
「そっか……」
「そうなんです」
「ちょっと、僕が話を聞いてみるよ」
「すいません。じゃあ後はお願いします」
 ほっとした様子でそう言うと、園部さんは婦人に僕を紹介してからカウンターの受付に戻った。

「職員の長谷川と申します」
「あ……っ、島野です。すいません、変なお願いしちゃって」
「いえ、出来るかどうか分からないんですが、とりあえず話だけでも」
「はい、実は本を探してまして……、ただ、題名が分からないんです」
「なるほど」

 話を聞くと、病気の為、もう余命の長くない島野さんの母親が、自分の若い頃に読んだ本を棺に入れて欲しいと最近話していて、その本を探しているとの事だった。題名は忘れてしまっているらしく、山の中の動物の話だという事だった。
「母も、重い病気で病床に伏せてるので記憶もあいまいで」

 その日の晩、僕は事務室に残ってパソコンで昭和初期の動物の話が描かれている本を探した。
「柳田國男の『野鳥雑記』、早川孝太郎の『猪・鹿・狸』のような、動物文学かな」
「どうなんですかね、動物文学以外でも、昭和初期の小説で動物が出てくる小説はたくさんありますからね」
 今日は遅番出勤の近藤さんも、残業で事務仕事をしながら、僕の話を聞いてくれていた。
「そうだね。この情報だけで絞り込むのは不可能だよね」
「……はい」


 数日後、僕は島野さんが教えてくれた連絡先に電話をした。
「図書館の長谷川です」
「どうも。すいません色々お手数おかけして」
「いえ……、それで色々お調べしたのですが、一応可能性がありそうなものをリストにまとめてみましたので一度見てもらおうかと」
「有難うございます。では本日受け取りに伺います」
「はい、よろしくお願いします」
 そして、その日の午後受け取りにきた島野さんに、昭和初期の本で動物が話の中に含まれているもののタイトルと簡単な話をまとめた紙を手渡した。

 翌日、僕が昼食から戻ると、島野さんから電話が入った。昨日の紙の件を母親に確認したが、どうやらこの中には無いという連絡だった。
「もし可能ならば一度お邪魔して、島野さんのお母さんにお話を伺った方が良い気がするんですが、どうでしょうか?」
「え……っ、いいんですか?」
「ご依頼の内容的に、勤務中だといろいろと問題がありますので、プライベートでお手伝いさせてもらいます。今度の僕の仕事休みの土曜日とかでもいいですか?」
「え……っ、はい。すいません、助かります」
 そうして、僕は島野さんから母親の入院している病院を聞いて土曜日の朝に行く事になった。

 鳴滝町から東に向かって30分程行った先にある望月総合病院に約束の時間に着くと、駐車場には、島野さんと彼女の娘らしき女性が立っていた。
「すいません、お仕事でもないのに、今日は……」
「いえ、司書として何かお手伝い出来ればと思いまして」
 そう言って僕が微笑むと、島野さんは頭を下げた。

 そうして、病院の奥の棟に進みエレベータで6階に上がると、すぐ正面にある島野さんの母親の病室に着いた。
「余命1カ月と、こちらの先生にも言われてるくらいなので、話も聞き辛いかと思いますが」
「はい、分かりました」
 僕がそう言って頷くと、島野さんは病室のスライド扉を左に動かして中に入った。

 彼女は左の奥にあるベッドの傍に行き、パイプ椅子を出して僕に勧めた。僕がそれに座って挨拶をすると、点滴をした痩せた老人が口を小刻みに動かしながら小さな声で話した。
「今日……は、あり……がとうございます」
「鳴滝町の図書館で司書をやってます長谷川です」
 僕が、耳元でささやくと、彼女はうれしそうに小さく頷いた。

 そして、島野さんの母親は、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私……には、歳の離れた兄がいました。本当に大好きな兄でした。残念ながら、戦時中に……特攻隊に志願して亡くなってしまいまして。兄は……本を読むのが大好きで、父が夜店で買ってきた本を……毎日のように読んでました。その……中でも大のお気に入りだった本……があって、私にも良く……聞かせてくれたんです。……ごほっごほっ」

 島野さんは、母親の背中をさすり口に水を運びながら僕を見て言った。
「母によると、特攻隊で召集される直前まで、叔父は母に本を読んでくれたそうです。残念ながらその時の本は、全て空襲で焼けてしまったそうで……。ただ、叔父さんがお気に入りだった今回の本は、最期の時に読むからと胸のポケットに忍ばせていったのです」
「そう言う事でしたか」
「そして、叔父が亡くなってから、遺品として届けられた物の中にその小説がありまして、叔父はあの世にその小説を持っていけなかったんです」
 島野さんはそう言って残念そうな顔をした。
「なるほど」

「そして、戦後お金に困って……、父がその小説を売ってしまったんです」
 僕は深く頷いて、島野さんの母親を見つめた。
「それで……、私があの世に行ったら、今度は……私が兄にその本を読んで聞かせたいと思いまして、今回無理を言った次第です」
「分かりました。何とか頑張ってみます」
「はい。有難うございます」

 僕は、島野さんが出してくれた紙コップに入ったお茶を一口飲んでから、幾つか質問をさせてもらう事にした。
「まず、山の中の動物という事ですが、これは動物が主人公と言う事ですか? 別でいる主人公が動物を飼っていると言う事ですか?」

「……確か、動物が主人公だったような……気がします。人は出てこなかったような」

「分かりました。では、動物はどんな動物か覚えてますか?」

「いえ……、ただ、犬とか猫みたいな……身近にいる動物で……はなかったと思います」
 島野さんの母親は、目を少し上に向けながら思い出そうとしている。

「こないだも母と話してたんですが、よく知ってる動物なら覚えてるはずだと」
「確かにそうですね。ただ、あの当時は現代みたいにいろんな動物が身近にいる訳ではないので、ある程度限定できるかなと思います」
「はい……、確かにそうですね」

「それで、何か記憶に残っているフレーズ……、文面って言うんですかね、そう言うのはございますか?」
 僕がそう質問すると、島野さんの母親は、しばらく目をつむって考えていたが、突然言葉を発した。

「あ……っ、書き出しが……」

「あっ、はい」
 僕はその瞬間、少し身を乗り出した。

「何か、その動物が悲しんでいるところから始まっていました」

「山の中で?」

「山……、岩……」

「岩……?」

「そう、岩……」

 僕はその瞬間、頭の中で一つの作品を思い浮かべた。僕が高校生の頃、学校の教科書で読んでから衝撃を受けて、その作品の改稿前の最初の作品から何度も読んだ短編小説である。
「……山椒魚」
「え……っ?」
「山椒魚と言う作品があります。大正から昭和初期の作家で井伏鱒二さんが書かれた短編小説です」
「……そんな題名の作品だったような」
「明日、図書館に行って確認してからまた来ます」
 
 翌日、僕は昼食が一緒になったライブネットの近藤さんと園部さんと昨日の話をしていた。
「動物が悲しんでるところから始まって、『岩』とくれば、確かに『山椒魚』ですね。……でも、良く気がつきましたね。さすが、長谷川さんだ」
 そう言って近藤さんは感心した。
「たまたま高校の授業でやったんですよ。ただ、あの時は衝撃でした。山椒魚なんてあまり馴染みのない両生類が主人公なんてね。しかも蛙と会話するなんて」
「確かに、今ならディズニーとかで蛙が話すなんてシーンは当たり前だけど、あの時は斬新だったろうな」
「山椒魚って爬虫類じゃないんですか?」
 園部さんが、驚いた顔で話すと「いや、両生類ですね」と言って近藤さんが微笑んだ。
「そうなんだ、でもうちの高校の授業は山椒魚じゃなかったから、言われても全然分からなかったな。今度読んでみます」

 そして、その週の土曜日、僕は島野さんの母親の病室を訪ねた。
「色々調べましたが、おそらくこないだ話した『山椒魚』で間違いないかと思います。あの当時としては珍しい童話の短編小説ですし」
「そうでしたか」
「それで、これをどうぞ」
 そう言って、僕は一冊の本を取り出した。それは、井伏鱒二の『山椒魚』の単行本だった。
「いえっ! そこまでは……」
 島野さんが、語気を強めて言った。
「いや……、重複本と言って、図書館に同じ本が数冊ありますので、近々除籍対象にするつもりでした。どうぞお受け取りください」
 そう言って、僕は持ってきた単行本を差し出した。
「何から、何まで……。すいません」

 そして、僕は島野さんの母親を見ると、彼女の目からは涙が溢れていた。そして、僕は彼女に話した。

「……ただ、この『山椒魚』は、作者の井伏鱒二さんが何度も改稿してます。その為、その時その時で最後のシーンが違っていたりもします。始めは『幽閉』という題名の作品で発表したんですが、この時は後の作品では重要な蛙との会話もなかったんです。……ですので、当時お兄さんが読んでくれた話とは少し内容が違ってる可能性があります」

「そうでしたか……。それでも兄は、この本を……喜んでくれると思います。あの世には……作者の方もいるだろうから訊いてみますよ。どうして何度も……内容を変えたのか」
 島野さんの母親は、微笑みながらそう言って、隣で島野さんも涙目になりながら頷いていた。


 ……それから数日後、島野さんの母親が亡くなったとの連絡を島野さんから受けた。今頃、一緒に持っていったこの鳴滝町立図書館にあった『山椒魚』の本をお兄さんと仲良く読んでいる事だろうと話していた。

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