第3話 児童コーナー
文字数 3,097文字
僕が、各地の図書室を回り終えて戻ってくると、ちょうどパートが昼食休憩を取る時間になっていた。僕はカウンター業務を交代する為、急いで1階への階段を上がっていく。僕たち職員の休憩時間は、その後の午後1時からとなる。
12時になり、カウンター業務をしていた浅野さんと引き継ぎ事項の確認してから交代すると、サイドテーブルに山積みにされた返却処理済みの本を、キャスターの付いた3段式のブックトラックというワゴンに載せてからカウンターに座った。
昼食の時間といっても、本を借りに来る人、返す人、そして本の場所を尋ねてくる人もいるので、カウンターでゆっくりしている時間はあまりない。僕が司書だと分かっている人は、専門的な質問をする為に待っている人もいるし、近所の知り合いなども気軽に話しかけてくる。そういう人たちとコミュニケーションをとりながら業務をしていると、1時間というのはあっという間に終わってしまう。
そして、午後1時になりカウンター業務が終わると、地下1階にある休憩室に入って、宅配で頼んでおいた弁当を食べる。僕は、料理に好き嫌いが無いので、いつも日替わり弁当だ。ちなみに今日は豚肉の生姜焼きだった。
今日は午後2時から、桃山保育園の園児たちが来るから1時間の休憩は取れそうにない。しかし、引率で京子さんが来るはずなので、僕の心は密かに弾んでいた。
隣で一緒に弁当を食べている田中副館長が、先ほどから大急ぎで口に食べ物を運びながら話している。
「紙芝居を読むのも、難しいんだよね」
「ただ、読むだけじゃだめなんですか?」
近くのコンビニエンスストアで買ってきた、糖分の多そうなパンを食べながら、横田さんが何気ない様子で訊いた。
「ゴホン……、そんな簡単な事じゃないんだよ、横田君」
田中副館長は、咳払いをしてから少し機嫌を損ねたように語気を強めた。
「そうですか、すいません」
横田さんはパンを口にくわえたまま、田中副館長の勢いに押されてすぐに謝った。
その様子を見て、田中副館長は満足した様子で表情を緩めて、また話し始めた。
「感情を込めて、こう抑揚を付けて読むのが難しいんだよね」
そう言って、彼は得意げな顔をしている。
「確かにそうですよね」
「そうだろ? さすが長谷川君は、司書だから良く分かってる」
僕が相槌を打つと、田中副館長は食べていた箸を僕に向けて、嬉しそうに言った。
司書は関係ないだろう、と僕は内心思ったが、他に誰も指摘しなかったので、僕も黙っていた。
すると、食事を終えた田中副館長は「さて、練習、練習」と言って、楽しそうに休憩室を出ていった。
「老人の変なこだわりってのに、あんまり反論しても面倒だからね」
そう言って、横田さんが薄ら笑いをしながら僕を見たので軽く頷いた。
僕は30分程の食事休憩をしてから、児童コーナーの様子を見る為に1階に上がった。平日の日中は、老人と子連れの母親の割合が多く、小さい幼児を連れた母親は必ず何組かいる。
築40年の鳴滝町の図書館では、過去数回の児童コーナーの小規模な改修を行い、その度に少しずつスペースが大きくなっていった。
今では1階全体の5分の1くらいが児童コーナーのスペースになっている。児童用に高さが低く抑えられた丸みのある木製書架が並び、机も椅子も子供用に脚の短いものになっている。
その他に、幼児が寝転がって遊べるような六
僕は、児童コーナーにいる、幼児を連れた母親に声をかけた。
「すいませんが、2時から園児たちが何人か来ますので、ちょっと騒がしくなります」
「あっ、はい。何かイベントですか?」
「紙芝居をやるんです」
「あら、良かったら一緒に聞いてもいいですか?」
「はい、どうぞ。……ただ、そこの読み聞かせの場所は園児でいっぱいになりますので、少し離れた場所からですが」
「分かりました。じゃあ、そこの机から見ます」
「はい、お願いします」
そして、僕は事務室からさっき直した紙芝居舞台と演台を持ってきて準備を始めた。
田中副館長は、さっきからずっと休憩室で紙芝居の練習をしており、元気な声が聞こえてくる。彼は今、それに生きがいを感じているようだ。
そろそろ桃山保育園の園児が来るかな、僕が落ち着かない気持ちで児童コーナーにいると、外の掲示板のイベント用ポスターを貼り替えていた吉岡さんが、園児が来た事を伝えに来た。
桃山保育園は、この図書館から歩いて5分くらいの場所にある。しかし、今日は12名の園児たちを2名の保母さんで引率してくるので、10分以上かかってやってきた。
京子さんは、入り口に立っている僕に気づくと、微笑みながら近づいてきた。
「今日もよろしくね」
彼女がそう言ったので僕も笑顔で頷いた。
そして、図書館の入り口で横に並んだ園児たちが、いつものように元気よく声を揃えて挨拶をした。
「きょうは、かみしばいを、よろしくおねがいします!」
「はい。では、どうぞ中へ入ってください。他の利用者がいるから、ここからは静かにね」
僕は園児たちの挨拶を聞き終わると、手を広げて中へと招いた。
「今日の紙芝居は、おばけの男の子の話だけどいい? かわいいおばけだけど」
僕は子供たちを誘導しながら、隣で歩く京子さんに訊いた。
「こわくなければいいよ」
「うん、大丈夫」
そして、田中副館長が自分で作った白いビニール製のおばけを見立てた衣装を羽織って、事務室から上がってきた。背が低くて痩せている彼には、とても良く似合っている。園児からは歓声が起き、その声を聞いた彼はとても満足げだ。
そして、彼は両手を広げてややオーバーにポーズをすると、準備された紙芝居を読み始めた。午前中ずっと休憩室で練習していたから、さすがに上手いものだ。園児たちも彼の話に引き込まれて興味津々で聞いている。
その光景を微笑ましく見ていると、背後から島田さんが耳元でささやいた。
「すいません、長谷川さん。さっき来た老人の男性が、子供がうるさいって……」
やっぱり来たか、事前にアナウンスをしていても、どうしても途中から図書館に入ってくる人はいる。来館する人の中でも、音に関して敏感な人は多くて、特に図書館は静かな所だという概念を持つ人にはクレームになり易い。
僕がその場を離れてカウンターに向かうと、老人は明らかに不満の態度を表している。
「すいません、あと1時間程で終わるので、我慢してもらえませんか?」
「なんで図書館の中で、幼稚園児に紙芝居なんて読むんだよ! しかも、あんな大勢で来て」
「小さいうちから、本とか活字に慣れてもらうというのが、この図書館の方針ですので」
僕がそう説明して頭を下げると「――ふんっ」と、吐き捨てるように言って、老人は帰っていった。
「あの人、こないだも別の事で怒ってましたよね」
島田さんが、僕に小声で言った。
「まあ、しょうがないですよ」
そう言って児童コーナーを見ると、京子さんが心配そうに見ていたので、僕は微笑みながら頷いた。
そうして、田中副館長の紙芝居は大成功に終わり、裏で起きた問題を知らない彼は鼻歌交じりに後片付けをしている。
園児たちも、あのおばけ可愛かったね、とか口々に言いながら帰っていった。
午後5時になり、僕が帰り支度をしていると、携帯電話にメールが入った。見ると、京子さんからだった。僕は少し緊張しながらメールを開いた。
「今日は、有難うございました。いろいろと助かりました」
僕はそのメールに「いえ、大丈夫ですよ」と返信した後「今度また食事でもどうですか?」と追加の文面を作ってはみたが、この日は送信ボタンを押すこと無く家に帰った。
12時になり、カウンター業務をしていた浅野さんと引き継ぎ事項の確認してから交代すると、サイドテーブルに山積みにされた返却処理済みの本を、キャスターの付いた3段式のブックトラックというワゴンに載せてからカウンターに座った。
昼食の時間といっても、本を借りに来る人、返す人、そして本の場所を尋ねてくる人もいるので、カウンターでゆっくりしている時間はあまりない。僕が司書だと分かっている人は、専門的な質問をする為に待っている人もいるし、近所の知り合いなども気軽に話しかけてくる。そういう人たちとコミュニケーションをとりながら業務をしていると、1時間というのはあっという間に終わってしまう。
そして、午後1時になりカウンター業務が終わると、地下1階にある休憩室に入って、宅配で頼んでおいた弁当を食べる。僕は、料理に好き嫌いが無いので、いつも日替わり弁当だ。ちなみに今日は豚肉の生姜焼きだった。
今日は午後2時から、桃山保育園の園児たちが来るから1時間の休憩は取れそうにない。しかし、引率で京子さんが来るはずなので、僕の心は密かに弾んでいた。
隣で一緒に弁当を食べている田中副館長が、先ほどから大急ぎで口に食べ物を運びながら話している。
「紙芝居を読むのも、難しいんだよね」
「ただ、読むだけじゃだめなんですか?」
近くのコンビニエンスストアで買ってきた、糖分の多そうなパンを食べながら、横田さんが何気ない様子で訊いた。
「ゴホン……、そんな簡単な事じゃないんだよ、横田君」
田中副館長は、咳払いをしてから少し機嫌を損ねたように語気を強めた。
「そうですか、すいません」
横田さんはパンを口にくわえたまま、田中副館長の勢いに押されてすぐに謝った。
その様子を見て、田中副館長は満足した様子で表情を緩めて、また話し始めた。
「感情を込めて、こう抑揚を付けて読むのが難しいんだよね」
そう言って、彼は得意げな顔をしている。
「確かにそうですよね」
「そうだろ? さすが長谷川君は、司書だから良く分かってる」
僕が相槌を打つと、田中副館長は食べていた箸を僕に向けて、嬉しそうに言った。
司書は関係ないだろう、と僕は内心思ったが、他に誰も指摘しなかったので、僕も黙っていた。
すると、食事を終えた田中副館長は「さて、練習、練習」と言って、楽しそうに休憩室を出ていった。
「老人の変なこだわりってのに、あんまり反論しても面倒だからね」
そう言って、横田さんが薄ら笑いをしながら僕を見たので軽く頷いた。
僕は30分程の食事休憩をしてから、児童コーナーの様子を見る為に1階に上がった。平日の日中は、老人と子連れの母親の割合が多く、小さい幼児を連れた母親は必ず何組かいる。
築40年の鳴滝町の図書館では、過去数回の児童コーナーの小規模な改修を行い、その度に少しずつスペースが大きくなっていった。
今では1階全体の5分の1くらいが児童コーナーのスペースになっている。児童用に高さが低く抑えられた丸みのある木製書架が並び、机も椅子も子供用に脚の短いものになっている。
その他に、幼児が寝転がって遊べるような六
僕は、児童コーナーにいる、幼児を連れた母親に声をかけた。
「すいませんが、2時から園児たちが何人か来ますので、ちょっと騒がしくなります」
「あっ、はい。何かイベントですか?」
「紙芝居をやるんです」
「あら、良かったら一緒に聞いてもいいですか?」
「はい、どうぞ。……ただ、そこの読み聞かせの場所は園児でいっぱいになりますので、少し離れた場所からですが」
「分かりました。じゃあ、そこの机から見ます」
「はい、お願いします」
そして、僕は事務室からさっき直した紙芝居舞台と演台を持ってきて準備を始めた。
田中副館長は、さっきからずっと休憩室で紙芝居の練習をしており、元気な声が聞こえてくる。彼は今、それに生きがいを感じているようだ。
そろそろ桃山保育園の園児が来るかな、僕が落ち着かない気持ちで児童コーナーにいると、外の掲示板のイベント用ポスターを貼り替えていた吉岡さんが、園児が来た事を伝えに来た。
桃山保育園は、この図書館から歩いて5分くらいの場所にある。しかし、今日は12名の園児たちを2名の保母さんで引率してくるので、10分以上かかってやってきた。
京子さんは、入り口に立っている僕に気づくと、微笑みながら近づいてきた。
「今日もよろしくね」
彼女がそう言ったので僕も笑顔で頷いた。
そして、図書館の入り口で横に並んだ園児たちが、いつものように元気よく声を揃えて挨拶をした。
「きょうは、かみしばいを、よろしくおねがいします!」
「はい。では、どうぞ中へ入ってください。他の利用者がいるから、ここからは静かにね」
僕は園児たちの挨拶を聞き終わると、手を広げて中へと招いた。
「今日の紙芝居は、おばけの男の子の話だけどいい? かわいいおばけだけど」
僕は子供たちを誘導しながら、隣で歩く京子さんに訊いた。
「こわくなければいいよ」
「うん、大丈夫」
そして、田中副館長が自分で作った白いビニール製のおばけを見立てた衣装を羽織って、事務室から上がってきた。背が低くて痩せている彼には、とても良く似合っている。園児からは歓声が起き、その声を聞いた彼はとても満足げだ。
そして、彼は両手を広げてややオーバーにポーズをすると、準備された紙芝居を読み始めた。午前中ずっと休憩室で練習していたから、さすがに上手いものだ。園児たちも彼の話に引き込まれて興味津々で聞いている。
その光景を微笑ましく見ていると、背後から島田さんが耳元でささやいた。
「すいません、長谷川さん。さっき来た老人の男性が、子供がうるさいって……」
やっぱり来たか、事前にアナウンスをしていても、どうしても途中から図書館に入ってくる人はいる。来館する人の中でも、音に関して敏感な人は多くて、特に図書館は静かな所だという概念を持つ人にはクレームになり易い。
僕がその場を離れてカウンターに向かうと、老人は明らかに不満の態度を表している。
「すいません、あと1時間程で終わるので、我慢してもらえませんか?」
「なんで図書館の中で、幼稚園児に紙芝居なんて読むんだよ! しかも、あんな大勢で来て」
「小さいうちから、本とか活字に慣れてもらうというのが、この図書館の方針ですので」
僕がそう説明して頭を下げると「――ふんっ」と、吐き捨てるように言って、老人は帰っていった。
「あの人、こないだも別の事で怒ってましたよね」
島田さんが、僕に小声で言った。
「まあ、しょうがないですよ」
そう言って児童コーナーを見ると、京子さんが心配そうに見ていたので、僕は微笑みながら頷いた。
そうして、田中副館長の紙芝居は大成功に終わり、裏で起きた問題を知らない彼は鼻歌交じりに後片付けをしている。
園児たちも、あのおばけ可愛かったね、とか口々に言いながら帰っていった。
午後5時になり、僕が帰り支度をしていると、携帯電話にメールが入った。見ると、京子さんからだった。僕は少し緊張しながらメールを開いた。
「今日は、有難うございました。いろいろと助かりました」
僕はそのメールに「いえ、大丈夫ですよ」と返信した後「今度また食事でもどうですか?」と追加の文面を作ってはみたが、この日は送信ボタンを押すこと無く家に帰った。