第4話 本を好きな子

文字数 3,243文字

「長谷川さん、ちょっといいですか?」

 ある日、僕が地下1階の作業室で雑誌の製本作業をしていると、1階のカウンターから馬場さんが下りてきて、階段の途中から下を覗くようにして僕を呼んだ。

 僕が階段を上がっていくと、カウンターの前で、うつむいている女の子と母親が立っていた。
「どうしました?」
 僕は女の子を横目で見てから、馬場さんに小声で話しかけた。
「これ……、本が破れちゃってて、2ページ分」
 そう言って、彼女は破れてしまった絵本のページを僕に見せた。
「すいません、持ってくる時に気づかなくて。娘が机の上で読んでいた時に、落としちゃったみたいなんです」
 女の子の母親は、申し訳なさそうに言うと頭を下げた。
「ああ、なるほど」

 僕が、破れたページを確認していると「ごめ……さ……い」と言って、女の子は泣いてしまった。この女の子は、少し言葉が不自由なようだった。
「大丈夫だよ。お兄ちゃんが、この絵本を直してあげるから」
 僕は、女の子と目線を合わせるようにしゃがむと優しく頭を撫でた。
「あり……がと」
「すいません、本当に……」

「――あっ、そういえばこの本、今週新しいシリーズ出てますよ」
 僕はそう言って立ち上がると、児童コーナーに行って本を取りだしてきて女の子に手渡した。すると、泣いていた女の子は嬉しそうな表情に変わった。

「お名前は?」
 僕は、口を大きくして、女の子に伝わる様にゆっくりと話した。
「かと……うゆみ……こ」
「加藤弓子ちゃんか……、また来てね。じゃあね」
 そうして、弓子は貸出処理された絵本を持って、手を振りながら笑顔で帰っていった。

「でも、これ……交換ですよね」
 馬場さんが、本の破れたページを見ながら困った顔をしている。
「うん、まぁしょうがないです。僕が払います」
「まあ、お給料良くないのに。また、無理しちゃって」
「それは余計ですよ。馬場さん」
 僕が苦笑いをすると、彼女は頭を下げて、いそいそとブックトラックに本を並べ始めた。


 それから、弓子は毎週のように図書館に来てくれるようになり、僕を見つけると、笑顔で手を振ってくれた。僕も彼女の笑顔を見ると、とても嬉しくなった。

 そのうちに、僕は弓子の好みが合いそうな本を事前に探しておいて、彼女が来ると「この本はどう?」と言って見せるようになった。弓子は児童用の机に座ってそれをしばらく読んでから、興味があれば借りていった。

 時間がある時は、僕が読み聞かせをしてあげたりもした。その時の弓子は、目を輝かせて聞いてくれた。それを繰り返すうちに、僕は弓子の好きな本の傾向が少しずつ分かる様になっていた。

 そういう弓子との交流が2か月程続いた後、彼女は急に図書館に来なくなってしまった。
 僕はしばらく気になっていたが、図書館に来る人が引っ越し等で急に来なくなることはよくあることだったので、少しずつ忘れ始めていた。


 ある朝、僕が作業室で仕事をしていると、隣の休憩室で話している馬場さんたちとの会話が聞こえてきた。
「そう言えば、前によく来ていた言葉が不自由な女の子いたでしょ」
「うん、弓子ちゃんだっけ」
「うん、そうそう、弓子ちゃん。こないだ北埼玉総合病院に、知り合いのお見舞いに行ったら偶然会ったのよ。寝間着を着て車椅子に乗ってたから、入院しているみたいだった」
「へぇ……」
「脳神経外科の方から来たから、やっぱり脳の病気なのかしらね」

(そうか、入院してたのか)

 それから1週間後、僕は午前中の各地の図書室の周回を終え、大村公民館の駐車場にいた。助手席に置いてある3冊の絵本を見ながら、ここから20分くらいだから行ってみようかな、と思い、弓子のいる北埼玉総合病院へと向かうことにした。

 病院の駐車場に車を止めると、僕は入口の案内サインを確認してから、脳神経外科のある病棟へと向かった。そして、ナースステーションで看護師に声をかけた。
「あの……、すいません。ここで入院している、加藤弓子さんにお見舞いに来たんですが」
「あー、はい。弓子ちゃんのご親戚?」
「いえ、弓子ちゃんがよく利用してくれていた図書館の職員の長谷川と申します」
「では、お母さんに訊いてみますね。ちょっとお待ちください」

 ……そして、看護師は母親に確認をする為病室に向かい、しばらくしてから戻ってきた。
「お母さんが今、ここに見えますので少しお待ちください」
「はい、ありがとうございます」

 看護師にお礼を言ってしばらく待っていると、弓子の母親が廊下の向こうから歩いてきた。
「すいません、突然来てしまって」
「いえいえ、それにしてもよく分かりましたね」
「ええ、たまたまこの病院で、弓子ちゃんを見かけた人がいましたので」
「ああ、なるほど」

「それで、弓子ちゃんは……」
 僕がそう言うと、弓子の母親は少し顔を曇らせた。
「生まれた時から脳に異常があるんです、あの子」
「そうだったんですね、すいません」
「いいんですよ。弓子が大好きな人ですもの、喜びます。どうぞ病室まで」
 そう言うと、弓子の母親は笑顔で右手を廊下の奥に向けた。

「あの……弓子ちゃんって今、本とか読めるんですか?」
「疲れない程度なら大丈夫ですよ。それに……今あの子から、本まで取り上げたら何にも楽しみ無くなっちゃう」
 彼女は、そう言って寂しそうに目を伏せた。

 エレベータで8階まで上がり、少し歩いた先にある弓子の病室へと入った。
「リンゴ、ゴ、ゴリラ、ラン……ドセル」
 彼女はベッドで横になって、天井を見ながら独り言を話していた。

「弓子、図書館の洋介お兄さんが来てくれたよ」
「ほ……んとう?」
 そう言って、弓子は嬉しそうに僕を見た。
「元気かい? 弓子ちゃん」
「にい……ちゃん」
 弓子は、精一杯の歓迎を表すかのように両手を広げてこちらに向けた。僕はその小さな手を、優しく握り締めた。

「これ、新しい絵本出てたから持ってきたよ。あと、お兄ちゃんのおすすめもね」
 僕は肩掛け鞄から絵本を出して、表紙を3冊分順番に弓子に見せた。
「やったぁ、あ……りがと」
 弓子は、両手を伸ばして本を受け取ると、1冊1冊を嬉しそうに見比べた。

 僕は、ベッドの隣にあった折りたたみのパイプ椅子に座ると、弓子の好きな動物の絵本の1話分を読んであげた。彼女は、それを楽しそうに聞いてくれた。

 絵本を読み終わり、時計を見ると、図書館に戻らなくてはいけない時間になっていた。
「あ……っ、お兄ちゃんそろそろ戻らなくちゃ。じゃあ、行くね」
「うん、ま……た来て……くれる?」
 弓子は、懇願するような眼差しを僕に向けた。
「――弓子、洋介お兄ちゃんにもお仕事が」
 そう言いかけた母親に、僕は目で合図をして頷いた。
「うん、もちろん。また新しい本が出たら持ってくるね、だから弓子ちゃんも頑張るんだよ」
「うん、ゆみ……こがんば……る」
 弓子は、嬉しそうに頷いた。

 僕は病室を出て、廊下に一緒に出てきた母親に言った。
「すいませんでした。今日は僕の思い付きで急に来てしまって」
「いえ、弓子のあんな嬉しそうな顔、久しぶりに見ました。こちらこそありがとうございました」
「では帰ります」
「あっ、長谷川さん」

 僕は廊下を歩き始めると、弓子の母親に呼び止められて振り返った。
「あなたは図書館の職員ですから、あまり無理をなさらないで下さい。弓子も利用者の一人に過ぎませんので」
「はい、でも弓子ちゃんは僕の大切な友達ですから」
「そう言っていただけると……、ただ、当分図書館には行けないでしょうし」
「弓子ちゃんが、元気になったらまた来れるじゃないですか」
「でも、無事に退院出来るかも」
「弓子ちゃんが、治る事を祈っています。そしてまた、大好きな本を思う存分に読めるようになることを」

 僕がそう言うと、弓子の母親は気を取り直したように僕を見て言った。
「そうですね。私が信じてあげないといけないですよね。今日は、本当にありがとうございました」
「本の力で、少しでも弓子ちゃんを元気づけられるなら、僕は喜んで来ますから」
 
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