第15話 業務委託

文字数 6,029文字

 この日の朝、少し肌寒さを感じたので厚めのジャケットを着て図書館へと自転車で向かった。この時期、図書館のある丘の上までの道中は赤く染まり、わざわざ遠方からこの景色を観るために来る人がいるくらい良い景色になる。
 僕が出勤すると、待ち構えていたように吉田館長に呼ばれてミーティング室へと入った。

「昨日、間野部長と話したんだけど、来年度から町の施設を順次、民間の委託に変えていく計画らしくてね。図書館、公民館、歴史博物館を今のパート体制を止めて民間の委託にしていきたいらしいんだ」
 吉田館長は周りを気にして小声で話している。
「図書館の委託については、実施している全国の図書館でも賛否あるみたいですよ」
「運営の立場からだといろいろ問題はあるけど、役所の立場からしたら概ね成功してるっていうイメージみたいなんだよね。まあ……費用的にという事だけど」
「そうですね。安くなれば良いって考え方ですと、そうなりますね」
「う、うん、まぁな。こないだ話したみたいに新図書館の計画もあるから、まだどうなるか分かんないけどね。それで、近々ヒヤリングあるかもしれないから、最近の情報を集めといてくれないか?」
「はい、分かりました」

 ――図書館業務の委託とは、図書館での日常業務であるカウンター、清掃、本の管理等を、部分的もしくは全体的に民間企業に外注化する事である。さらにその業務委託も含め、民間企業(またはNPO)に図書館運営の全般まで任せてしまう事を図書館の指定管理と言う。

 午後の休憩時間、僕は吉岡さんと食事しながら今朝の吉田館長とのやり取りを話していた。
「ダメに決まってんじゃんね」
 開口一番、吉岡さんは猛反対の様子だった。
「もう、そういう方向みたいだよ」
「でも……、パートさんどうするの? 最近採用してる人もいるし」
「うん、そうだね」

「あの……」
 すると、カウンター業務をしていた、馬場さんが2階から下りてきた。
「どうしました?」
「なんか、業者の方がご挨拶したいって」
 馬場さんが預かってきた名刺を見ると、業務委託の会社の人だった。
「図書館に来られても困るよね」
 そう言うと、吉岡さんは腕まくりをするような仕草をしながら1階に上がっていった。

「あんまり、きつく言わなきゃいいけどね……」
 そう言って、テーブルの端に座ってスマートフォンを見ながら菓子パンを食べている横田さんがポツリと言った。
「業務委託にするの?」
 馬場さんが、心配そうな顔で訊いてきた。
「いや、まだこれからどうするかって感じですよ。僕らもまだ詳しく知らないんです」
「そうですか」
 そう言うと、馬場さんは1階に上がっていった。
「でも、パートさんに辞めてもらうってのも気の毒だよね」
 馬場さんの後ろ姿を見ながら、横田さんが小声で言った。
「そうですね」
 そして、吉岡さんが鼻息荒く1階から下りてきて「追い返してやったわ」と言った。


 その日の晩、僕は京子と隣町の杉戸町にあるイタリアンレストランで食事をしていた。
「この鯛のカルパッチョとってもおいしい。少し食べてみる?」
 京子は、自分のフォークの上に1切れのカルパッチョにカラスミをつけて僕の口に近づけた。僕は口にそれを入れて食べた。
「うん、おいしいね。旨味が凄く出てる」
「ねっ」
「僕のも食べてみる?」
「いや、実は私、モッツァレラチーズとトマト両方だめなの」
 彼女は申し訳なさそうな顔をして言った。
 この時、僕の頼んだ料理は『水牛のモッツァレラチーズと丸ごとトマトのカプレーゼ』という料理で、彼女にとっておそらく一番苦手な組み合わせの料理だった。

「そう言えば、お父さんに話したの? 僕たちの事」
 食後に出てきた紅茶を二人で飲んでいる時、僕は京子に訊いた。
「まだ言ってないの。母さんが、父さんに先に匂わしといてあげるって言ってるから」
「そうか……。まあ別に慌てる事でもないけど、二人でいる時に、どこかでバッタリ会っちゃう前に、先に挨拶しておきたいなと思って」
「びっくりするかな、お父さん」
 彼女は、そう言って楽しんでいるかのように微笑んだ。
「するだろうね。いきなり怒られたりしてね」
「大丈夫だと思うよ。外ではいつもムスっとしてるらしいけど、家では全然違うから」
「へえ、そうなんだ」
「うん。特に私には甘いの」


 翌日、僕は遅番の午前10時に出勤すると図書館の空気がいつもと違っていた。
「――びっくりしたわよ、彼女がスプーンに載せた料理をパクッて食べてさ、あれは相当進んでるわね。今年か来年中に、結婚まであるかも」
「へえ……」
 パートの浅田さんの興奮した様子で話す声が、階段まで聞こえてくる。小声で話そうとしているみたいだが丸聞こえだ。

「おはようございます」
 僕が、作業室をのぞいて馬場さんと浅田さんに挨拶をすると、浅田さんは慌てた様子で言葉を止めた。
「――あっ、お、おはようございます」
 一瞬気まずい空気が流れたが、馬場さんが足早に近付いてくると、小声で「おめでとうございます」と言って満面に笑みを作った。
 その瞬間、僕は嫌な予感がして周りを見渡すと、他のパートも意味ありげに微笑んでいる。
「はあ、どうも」
 僕は、素っ気なく答えて事務室に入った。

 事務室のメンバーにも、そわそわして明らかに落ち着きがない空気が漂っている。そして、さらに落ち着きがなくなっている田中副館長が、含み笑いを浮かべながら近づいてきて僕の耳元にささやいた。
「昨日、君たちが杉戸町で夕食を食べていたイタリアンレストランで、浅田さんが家族で食事をしていたらしいんだ」
「あっ、……そうでしたか」
 僕は努めて冷静さを装って言った。その時、作業室から1階に上がる浅田さんと目が合い、彼女はぎこちなく笑いながら頭を軽く下げていった。
「君も隅に置けないね。スプーンでパクって……。ああー、うらやましい」
 そう言うと、田中副館長は意味ありげに微笑んでから事務室を出ていった。
 僕はめんどくさいのに見られたなと思い、気が重くなった。


 そして、昼の休憩時間にいつもの宅配弁当を食べてから事務室へ戻ると、吉田館長が話しかけてきた。
「長谷川君、これから用事ある?」
「いえ、外のポスターを張替えようかなと思ってたくらいです」

「間野部長がさ……」

 吉田館長がその名前を出した瞬間、田中副館長の肩がピクッと反応したのに気づいていたが無視をした。吉田館長も、田中副館長をちらっと見て様子が気になったようだが話を続けた。
「昨日の委託の件で、司書としての君の意見を訊きたいって言ってるから、一緒に役場へ行ってくれないかな?」
「はい、行きます」

 僕はそう応えてから、持参する為の図書館の業務委託についての資料を整理していると、田中副館長がぎこちなく笑いながら近づいてきた。
「お父さんには、もう挨拶してるの?」
 この時、僕は聞こえてないふりをして無視をした。

「あの……」

 なおも、田中副館長は諦めないようだ。
「はい、何ですか? 今から役所に行かなくてはいけないんで」
 僕は、早口で田中副館長に言った。

「いや、……いい」

 すると、田中副館長はそう言って、すごすごと閉架書庫に入っていった。
 その様子を見ていた吉岡さんが、あきれた顔で言った。
「大変ね、一番見られたらいけない人に見られちゃったね。私なら黙っててあげたのにね」
「うん、そうだね」
 僕は苦笑いをしながら言った。
「でも、まだ挨拶してないなら早く言っとかないと、この調子だと間野部長の耳に入るのも時間も問題よ」
 吉岡さんは、閉架書庫の方角を見ながら心配した様子で僕に話した。
「そうだね。さて、準備するかな」
「がんばって、民間委託から死守してきてね」
 吉岡さんは右手でこぶしを作った。
「まだ、そこまでの話じゃないでしょ」
 そう言って、僕は席を立った。

 プライベートの充実とは裏腹に、鳴滝町立図書館の司書としての僕には、これから困難が待ち受けていた。そして、その始まりとなるのがこの日の午後の生涯学習部でのヒヤリングであった。
 吉田館長と僕は、間野部長のいる役場の生涯学習部に向っていた。鳴滝町役場は丘の上にある図書館から歩いて5分ほどの場所にあり、今から3年前に建て替えをした4階建ての真新しい建物だ。

「なんか図書館のみんなコソコソ言ってるけど、どうしたの? 言い難い事なら別にいいけど……」
「実は、間野部長の娘さんと付き合い始めたんですけど、昨日浅田さんの家族に見られちゃったみたいで」
「え……っ、そういうことか。でもよりにもよってだね」
 吉田館長は少し驚いた後に、微笑みながら言った。
「そうなんです」
 僕は、困った顔で話した。
「でも、まあ間野部長も今年で定年だし、良い事じゃないの?」
「そうですかね」
「私にも娘がいるけど、君なら安心だわ」
「いえ……そんな事は」
「それで、間野部長は知ってるの? この事」
「いえ、まだ。昨日はその話をしてたんです。これからどうしようかって」
「ああ、そういう事か」
 吉田館長は、そう言って大きく頷いた。
「でも、今はその話聞かなきゃよかったな」
「どうしてですか?」
「だって今から会うからそういう目で見ちゃうよね、間野部長の事。長谷川君のお義父さんになるかもしれない人だからね」
「ええ、まあそうですね」

 そして、階段を上がり2階の廊下を進んだ一番奥にある生涯学習部と教育委員会のある部屋に入ると、間野部長は不在のようであった。
 吉田館長は毎日のように来ているので、慣れたように空いた席に座り、近くにいた教育委員会の職員と談笑を始めた。
 僕は、普段それ程来ることもない所なので、落ち着かない様子で周りを見渡していると、吉田館長から席を勧められて座った。

 しばらくして、間野部長が市長室から出てきた。
「ごめん、ごめん、吉田さん。待たせたね」
「いや、今着いた所です」
 そして、間野部長は僕を見て言った。
「ごめんね、じゃあ長谷川君の話を聞こうか」
 その様子から、まだ間野部長は、僕と彼の一人娘の京子が付き合っているとは夢にも思っていないだろうと思った。

 そして、生涯学習部の端にある二人用のソフアーには、僕と吉田館長が座り、対面にある一人用のソファー2脚には間野部長と生涯学習部の加藤課長が座った。
「それで、吉田館長からも聞いていると思うけど、今、鳴滝町の公共施設を将来的には指定管理にしていこうと検討していてね。先ず、業務委託を始めてみようと思ってるんだ」
 間野部長は、僕の方を見て説明を始めた。
「はい」
「それで、公民館は良いとして、図書館には司書、歴史博物館には学芸員と専門職員がいるから、その辺りの事を聞いておこうかと思ってね」
 間野部長の渋くて落ち着いた口調での話しぶりを聞きながら、先日京子が言っていた家での様子が思い出されて、心の中で笑っていた。まだ、この時はそんな余裕があった。

「業務委託だけなら、図書館のパートさんにお願いしている賃金との比較では、メリットがないと思うんですけど……」
「――いや、正規職員5人とパート7人分だろ。正規は二人だけでいいと思うんだよな」
 間野部長の隣に座っている加藤課長が話をはさんだ。
「え……っ、パートさんだけじゃないんですか?」
 僕は、少し驚いた様子で言った。
「そういう事。だから、管理する人間が二人いればいいだろ。何かあった時は、生涯学習部から行けばいいんだし、ここから5分で行けるしね」
 加藤課長の話ぶりは高圧的だ。僕の隣に座っている吉田館長が、横目で心配そうな視線を僕に向けている。

「管理するだけですか。でも、鳴滝町の職員にも図書館の事を知っている人間は必要だと思うんですけど、今までも前任の家田さんから、僕が選書とか除籍のこの町の基準っていうか歴史を引き継いでますし。それを、全部民間に任せちゃうのは」
「――それは、別に問題にならないでしょ。今ではシステム化されてるから、そんな事はデータでいくらでも残していけるし。君も若いんだからそんなこと分かってるだろ?」
「そんな事って……」
「それに、管理する職員も、一応いるんだから大丈夫だと思うんだけどな。まぁ、それも指定管理にして、全部民間に任せちゃおうってのが次の段階なんだけどね」
 加藤課長はそう言うと、意地の悪い笑みを僕に浮かべた。

「まぁまぁ、加藤さん。まだそこまで飛躍しない方がいい。決まった事じゃないから」
 吉田館長が、加藤課長をたしなめるように言った。
 間野部長は、先程から黙ったまま時折頷いている。
「はい、はい」
 加藤課長は、ふて腐れたように返事をした。
「あとは今、図書館がやっている学校図書室や、公民館図書室の所蔵図書の管理を、受託会社が引き継いでもらえるのかっていう事も問題になるかもしれません。そういう事を断られている公共の図書館もあるって聞いてます」
「そんな細部の事は、今後でいいと思うけど、まあでも委託された会社にやらせりゃいいじゃん。生涯学習部で一旦受けてから、図書館に回してもいいし」
 加藤課長は、少しイライラした様子で話した。

「うん、分かった、ありがとうね、長谷川君。参考にする」
 黙って話を聞いていた間野部長が口を開いた。
「あっ、はい。では……」
 吉田館長は、間野部長に軽くお辞儀をして席を立った。
「さあ、行こう。長谷川君」
 そして、せかすように僕の肩に手を置いた。

 図書館に戻ると、吉田館長にミーティング室に誘われた。
「あれはさ、もう指定管理までやるのが内々で決まってるんだよな」
 吉田館長は、僕に気を使って優しい口調で話した。
「はい」
 僕も正直、あの様子からなんとなくそれは感じていた。
「だから、君の意見を聞くのも、まあ、形式的なもんなんだよ」
「……」
 僕は、黙って頷いた。
「いやな世界だけどね、ほんと」
 吉田館長は、そう言うと、ポットからカップに紅茶を二人分注いで、テーブルの僕の目の前に片方を置いた。
「ありがとうございます」
「君は、まだ若いから納得できない事も多いだろうけどね」
「すいませんでした」
「うんうん」
 吉田館長は優しく微笑みながら頷いた。
「それに、今回間野部長が君を呼んだのは、これを実施していく為に、吉岡君やパートの人たちを説得する役割を君にも期待してるんだよ」
「僕には、重荷です」
 僕は下を向いて、しばらく沈黙してから答えた。
「うん。まぁ管理する立場として私がやるんだけどね、もちろん」
 吉田館長は、そう言って視線を落とした。

「どうだった?」
 事務室に戻ると、電話の受話器を置いた吉岡さんがすぐに僕に訊いてきた。
「う……っ、うん」
 僕があいまいな様子で応えると、顔を曇らせながら彼女は言った。
「あら、あんまりいい話じゃないみたいね。今度じっくり聞くわ」
 そう言うと、彼女はまた電話をかけ始めた。

 鳴滝町立図書館は、これから大きく変わっていくことになる。僕はこの時、これから起こる事を考えると重い気持ちになっていた。
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