第7話  辰砂

文字数 2,660文字

蘇芳は机の上に置かれた赤くて美しい鉱石を眺める。
石を両手で包む。
薄いラテックスを通して鉱石の温かみを探す。

鮮血色のそれは辰砂の鉱石である。
辰砂は硫化水銀である。
()とも。
()は紅色を指す。
丹を産出する場所を丹生(にう)という。

これを砕いて熱し蒸留すればラテン名「生きている銀」が精製できる。
英名「mercury] 
占星術では水銀を水星に見立てる。
ギリシャ神話のヘルメスの性格に関連付けられている。
ヘルメスは知恵の神。


机上に置いてある「錬金術」の本を手に取り、ぱらぱらとめくる。この本を高校の頃から何度も繰り返して読んだ。部屋の本棚には数冊同じ本が有る。ボロボロになると新しい本を購入した。何がどこに書いてあるのかほぼ暗記している。

唐代の丹薬(たんやく)の奇妙で華麗な名前。
劇薬に等しいその配合物。ほぼ全ての丹薬に使われていた砒素。次いで水銀。カルシウム。硫化鉄や硫酸銅、そして硫黄など。
なんとまあ恐ろしい物を丹として服用していたのか。

錬丹術、錬金術、鉱物や薬草の本が数多ある中で、この本は昔からの一番のお気に入りだった。

水銀。
古名、汞(みずがね)
銀の月。

扱い方によってはとんでもなく有毒なこの物質はその美しい形状と特異な性質から古来、錬金術、錬丹術の原料として使われていた。東西を問わず。

中国錬丹術で延命仙術の(たん)は幾種類もあるが「不死」をもたらすのは水銀だけとされていた。
これが長い期間、丹として使用され実際に服用されて来たのだ。
唐代の皇帝数名はこれを服用して水銀中毒で亡くなったとある。
唯一天寿を全うしたのは則天武后のみ。
それは女性だったからだろうか?
則天武后は残酷な女帝だった。
持統天皇もその美しさを保つ為に服用したとある。

空海が高野にその本拠地を置いたのも、ここが古くからの丹の産地だと知っていたからだとモノの本にはある。高野明神と丹生明神から譲り受けた地。
日本列島を縦断する中央構造線沿いには水銀鉱床が多く存在する。吉野、高野付近はこの豊かな鉱床の上にある。

地図を確認すると、紀伊半島には世界文化遺産の「丹生都比売(にうつひめ)神社」を始め、数多の「丹生神社」が存在する。          
丹生都比売神社は朱色の社が緑の杜に美しく映え、池を跨ぐ急な太鼓橋が有名だ。
横手の暗い森の中に寺院跡がある。
丹生都比売神社は高野山への入り口であり、神仏習合の始まりの場でもあったとある。

空海はこの辰砂を使って財を成したと、どこかの番組で言っていた。

真言密教の秘法「土砂加持」。
葬式の時に真言を唱えて死体に土砂を振り掛ける。前世の罪業が取り除かれ、死体の硬直も防げるという事だ。この土砂は辰砂だと判明しているらしい。
空海が水銀の粒を毎日一粒ずつ飲んでいたというのは本当だろうか?

ずっと疑問だった。
今でも疑問だ。
何故、水銀なのかと。
西洋でも東洋でも。

黄金は分かる。銀も。

キーワードは「変化」だろうなと思う。

水銀を使った鍍金は古くから活用されていた。
奈良の大仏の金メッキは水銀と金のアマルガムである。
その水銀が気化して大気中に放出されたとか。『錬金術』の本には、「使われた水銀は金10400両に対して58600両」とある。水銀は金の5倍強。

合金を塗り付けて大量の水銀を炭火で気化させたらしい。
現在の使用単位に換算してどれ位の量を使ったのかと調べてみたら、資料によってまちまちだった。いずれにしろとんでもない量なのは間違いない。

熱で気化した水銀がゆらゆらと陽炎の様に大仏から立ち上った、そんな風景を想像する。
恐ろしい。
それが大仏殿の中に広がる。
常温でも容易に気化するとあるから、真夏は零れ落ちた水銀が限りなく気化したかも知れない。
実際かなりの人が亡くなったと研究者たちは言う。
とんでもない公害発生である。

また、「()」は古来から高級な「水銀朱」として工芸品、寺社の赤色顔料や防腐剤に使用されて来たとある。別の原料からなる朱よりも発色が美しいと。貴重な「朱」である。綺麗なので使ってみたら防腐効果があったという所か?
神社のあの鮮やかな朱。即ち丹。



常温での相は液体。
常温という状態では唯一の液体金属。
その光る銀がこの朱から生れると言うのも不思議なものだ。

「陰」である汞は自分達に似ている。
ひっそりと夜空に登る月。
相手を包み込み、相手と化合してしまう。
相手にこっそりと同化してしまう。

では「金」はどこに?
「陽」である「金」は。
二元を一元に。
蘇芳は頬杖をして鉱石を眺める。

「蘇芳。そろそろ準備をしてください。お客様がいらっしゃいます」
階段の上から母が呼ぶ。
「分かりました」
返事をして辰砂をケースに仕舞う。


 鉱石は元素鉱物から始まり、硫化鉱物、硫塩鉱物、酸化鉱物、水酸化鉱物・・という様に化学組成によって几帳面に分類され、それぞれのケースに収められている。
辰砂を硫化鉱物のスペースに戻すと、(ついで)に隣の遮光ボックスに入れられた鶏冠石を眺める。
鶏冠石も赤だ。こちらは砒素を含む鉱石だ。地球上に砒素を含む鉱物は数多存在する。

(たん)か・・」
蘇芳は呟く。
キャビネットの電子錠をオンにする。


階段を上がってドアを閉めると、伯母の姿が見えた。
「あら、伯母様。こんにちは。今日は大阪からいらしたの?」
白衣を身に付けた彼女がのんびりと廊下を歩いて来る。
「そうよ。地下室にいたの?」
「ええ。私の癒しの時間。」
「ふふ。あなた、薬剤師になると良かったのに。」
「無理、無理。薬剤師なんて。数学と化学と物理はちんぷんかんぷんで。全く頭に入って来ないの。・・・いくら由瑞に教わってもちっとも理解できなかったわ。きっと理系脳は全て由瑞が奪って行ったのよ。管理栄養士になるのだって必死で勉強したのよ」
叔母はふふふと笑う。
「理科が苦手じゃ薬剤師は無理だわね」
伯母は面白そうに眼を細めて蘇芳を見る。
この表情は母に似ている。

年を取ってそれぞれ歩んで来た道の違いで顔や雰囲気は変わっても、やっぱり姉妹だと納得する。
「どうして由瑞は医者にならないで教師なんて職を選んだのかしら?由瑞だったら医者になれたでしょうに。」
「楽勝だったでしょうね。でも由瑞はずっと先生になりたかったのよ。あの人、あれで学校が好きなの」
「そんな風には見えないわね」
伯母は笑う。

「ところで今日は石の話は聴けたのかしら?」
蘇芳はあら。と答える。
「鉱石はまだまだ無理。石は難しいわ。植物みたいにはいかないわね。・・・伯母様。御免なさいね。失礼するわ。お客様がいらっしゃるの」
「あら、じゃあおめかししないと」
伯母がそう言って去って行く。
蘇芳は自分の部屋に向かった。
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