第27話  珠衣Ⅱ

文字数 1,934文字

「もしかして宿泊者名簿に嘘、書いた?」
樹が言った。
「何で?」
「奥様って言われたから」

「記憶にない」
融が答える。
樹がクスクス笑う。

湯上りの少し濡れた髪をアップにしていて浴衣姿が色っぽい。
首筋の後れ毛と白い襟足から目が離せなかった。
「何をボーと見ているの?」
融の視線に気が付いた樹が聞く。
「うん?いいなあと思って」
「何が?」
「浴衣姿」
「温泉の?」
「そう」
「ありゃ。惚れ直した?」
「うん」
「へへへ」
樹が笑う。

「お風呂場でその歯型を誰かに見られなかった?」
「もう、薄くなっているから。そんなに気にしない」
「君の彼氏は変態だと思われているだろうな」
融は樹の手を引く。そしてその胸に樹を抱く。

樹は融の顔を眺めた。
穏やかでいながら芯の強そうな表情。
切れ長と言うには細い一重瞼の目は、笑うと優しい線になってしまう。
その頬に手を伸ばす。

「何?」
融は聞いた。
「融君。私の事を好き?」
樹が言った。
「当たり前だろう。俺、最近は君のことばかり考えている」
「ふうん」
「何?その気の無い反応」

「・・・大体、あの頃は・・君、俺の布団に潜りこんで来たよね?・・覚えている?まさか、俺の記憶違いじゃないよね?・・・それで俺が胸でも触ろうものなら泣いて怒ったよね?合ってる?合っているよね・・・・どれだけ、俺に我慢を強いたか、君、分かっている?・・きっと分かってないね?」

「俺はあんたの親じゃねーつうのって何度も思った」

樹はクックと笑う。
「だってあの頃私は病気だったから。仕方ないよね。心を病んでいたから。それに融君が余りにも優しかったから、我儘言ったり、甘えたりしたんだと思う。でもキスはしたよね?」
「キスはね。ただのキスね。高校生みたいな。それも二回だけ」
「よく覚えているね」
樹は感心した。
「君はそれで去ったんだ」
融が言った。

「だって、あなたには小夜子さんがいたから。‥・・お互いに別々の人を求めていたの」
「そう思っていたのは君だけだから。
自分で勝手にそう思い込んでいただけだろう?俺はちゃんと君を求めていたよ。それなのにそんな思い込みで俺を振ったんだ。俺は真剣に君が好きだったのに」
「あれ?そうだった?そんな素振り見せていなかったと思うよ」
樹は言った。

「それは君がめちゃくちゃ鈍感だからだろう?俺がそう言っても、君は全く聞く耳を持たなくて。それで勝手にさようならとか言ったんだ。
俺はちゃんと君が好きだって言ったのに。融君は勘違いをしているとか言っちゃって。
「はあ?」って思ったよ。・・・あの後、俺はすごく落ち込んだ。この馬鹿女と思ったよ」

樹はあははと笑う。
「御免なさい。だって仕方がない。あの頃はそうとしか思えなかったから。この人、小夜子さんと私を取り違えているって思っていたから。私は小夜子さんの代わりじゃないからって思ったの・・でも私が立ち直れたのは融君のお陰だから。それは大丈夫。よく分かっているから」

だからさ。
そう言って融は樹の唇に触れる。
「恩人じゃなくて、好きだったんだよ。俺は君が好きだったから一緒に居たんだ。君が大事だったから我慢も出来たんだ。でも、俺、これからは我慢しないから。これからは俺が胸を触っても怒らないでくれよ。・・・まさか君は又、俺の事を振ったりしないよな。」
「しないよ。融君が大好きだよ。優しいあなたが大好き。あなたが私を好きでいる限りずっと一緒にいるよ」
「そんなのずっと好きに決まっている。俺は君をうんと大切にするよ」
「これ以上ない位?」
「そう。これ以上ない位」
「私だけを?」
「君だけを」
融は樹を抱き上げる。


「ひとつ聞いていい?どうしてバリキャリの彼女と別れたの?」

融は布団に樹を横たえると、その横に寝転がる。
そして片肘を付いて幸せそうにその顔を眺める。

「聞きたい?」
「うん」
「言いたくない」
「じゃあいい」
樹がにやりと笑う。
「何?その嫌な笑いは」
「別に」
樹が答える。
「その他にも女がいたんじゃないの?」
「知らないな」
「言葉が上手過ぎるんだけれど」
「練習したから」
融はそう言って笑った。

融は樹の手を取って、手首の傷を指でなぞる。
「いつの間にか傷跡が薄くなっている」
「美容外科で」
「これなら分からないね」
「どうかな。・・でも有り難う。そう言ってくれて」
「ようやく陸君の時計が外せたな。」
「あの時計は重かったしね。」
「心も軽くなったでしょう?」
「うん。陸の時計が全部持って行ってくれた」
樹が言う。

融の手が樹の髪を解く。髪がはらりと肩に落ちる。
それを暫く眺めると一言「綺麗だ」と呟いた。
樹は目を閉じて融の背中に手を回した。融の手が樹の肌に触れる。温かくて大きな手が樹の腰を引き寄せる。樹は融の足に自分の足を絡ませた。唇を重ねると、樹はその甘やかな感覚にゆっくりと沈んで行った。

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