第11話  采配

文字数 2,448文字

融の脳裏にはアメリカに出張している2つ年上の彼女の姿が浮かんだ。

帰って来たら話があると言っていた。きっと結婚の事だろうと思った。
結婚か・・・。今、この状態で結婚など出来るのだろうか。
でも彼女はもう33だから妊娠を考えると早めに結婚したいと思っている。
それは分かるが・・・。

彼女と結婚?
あの人はこんな俺と結婚なんかしてくれるのだろうか?
家族もいない。意識不明の従妹しかいない。
その従妹を抱える自分と。
そう思うと全く自信が無かった。

偶然出会った樹の笑顔も浮かんだ。
久し振りに会った彼女は見違える程明るく元気になっていた。
しっかり自分をコントロールしている感じがした。
結局、樹は公園には寄らないで帰って行った。


出会った頃は樹の事ばかり心配していた。
彼女はいつも曖昧な表情をしていた。
捉え処の無い・・無表情というか・・。
現実では無い何処か別の場所を見ている様な感じ。
どっぷりと悲しみに浸かっている内に、その他の感情も全てそれに染められてしまったみたいだった。囚われた場所から抜け出る事が出来なかったのだろう。

同時にこの子は何て『軽い』のだろうと思った。儚くて危うい。

あの頃ずっと意識不明で眠っている小夜子よりも存在そのものが軽かった。手を放すとどこかに消えて行ってしまいそうな、そんな危うさを感じた。それが心配で一緒に居たのに、いつの間にか手放せなくなってしまっていた。

あんなに大切にしたのになあ・・・。
2年前のほろ苦い思い出が蘇る。
恋人を事故で亡くした彼女の左手首には傷跡が残っていた。
引き攣れた傷跡。
それを形見の時計で隠していた。
その男の時計を外させたいとずっと思っていた。


結局振られてしまったのだけれど。
ずっと忘れていたのに。・・・いや、時々は思い出した。
彼女は今どうしているかと。
再会なんかするから。
融はそう思った。
だが、声を掛けずにはいられなかったのだ。

樹からあの軽さが消えてた。
それは彼女が自分で自分を塗り替えて来たからだ。自分の力で危機を乗り越えたのだ。
それは見事な再生だと思った。

あの子は思ったよりも強い。
そう思った。


曲はG線上のアリアに移る。
小夜子はこの曲が一番のお気に入りだった。
バッハが好きだった。
樹もバロック音楽が好きだと言っていた。
クラッシックのコンサートに樹と行ったことがあったな。
融は思い出した。

融が曲を聴きながらそんな事を思い出していると、また影の声が聞こえる。
「融。・・・おい。融。聞いているのか?・・・お前は小夜子と添い遂げるはずだろう?」
影が言う。
「冗談は止してくれよ。どうして俺が小夜子と。・・それに小夜子は怜を探しているのだから。」
「だが、お前は昔、小夜子と結婚してずっと小夜子を守って行くと言っていたぞ」
融は吹き出した。
「いつの話だよ・・。大昔だろう?何も知らなかった無邪気な子供の戯言をいつまでも言うな。それに俺に小夜子を守れる訳が無いだろう?どう考えたって]


「ふふふ。俺達は丁度良いと思ったが・・・・まあ、無理強いも出来ぬ事だ。・・それに実際にお前はこうやって小夜子の面倒をよく見ている。これは俺達には出来ぬ事だから・・有難いと思っている」
「大切な家族だからな。たった一人の。・・・俺は小夜子まで失くす訳には行かない。
小夜子が元通りになるなら何でもやる。だが、それは恋愛とは違うから。よーくその違いを理解してくれよ」
融はそう言った。
「心得た」
影が笑う。そして薄くなる。
それでも融は影がこの部屋にいる事を知っている。

融は小夜子の手を取る。
長い間陽に当たる事が無くなって、腕は透き通るような白さだ。
融は樹の健康的な肌を思い出す。
そう言えば二人は同じ年だったな。・・・

人生の一番いい時期を病室で眠って過ごしている従妹が哀れだった。
こんなに綺麗なのに。

曲がアルビノーニのアダージョに変わる。
曲をスキップする。
この曲は暗い気分にさせる。


「なあ。夜刀。先日奇妙な奴らに出会ったのだが・・・あれは何と言うか・・彼等の中と言うか後ろと言うか・・・そこに黒い影が見えた。・・・あんなの初めてだ」
影は何も答えない。
「動物の気配がした。影に一瞬、狗(いぬ)の様な耳が見えた。・・・狗神だろうか?・・・狐神だろうか・・それにしてはちょっと感じが違う様な」
「ほう・・・狐憑きか?珍しいな。昔はよく出会ったものだが。・・・。今は殆ど見掛けないな」
「昔っていつ頃の話だ?」
「そうさな。・・・記憶も定かでない程の昔だな。・・・最後に見掛けたのが・・・あれは終戦の夏だった・・・・‥融。近寄るなよ。狗であろうが、狐であろうが関わって良い事はない。やつらは何と言うか・・・こちらの考えもしない事をする。災禍を運んで来る。・・・お前が関わる事で、災が小夜子に及ぶ」

・・・「関わるな」か・・。あれが樹と同じ職場にいるという事はどうなのだろうか。
あの兄の方はまだしも、あの弟の方。あれはちょっと問題だ。影が濃すぎる。
あれはもしかしたら先祖返りなのか?

嫌な予感がする。

彼等は自分の中の何者かについて認識しているのだろうか?
分かっているのだろうか?
人とは異なるモノがそこに有るという事を。
だが、あの顔は「こいつは見えている」ということを察知した顔だった。
思わず樹を後ろ手に隠したが、あれは不味かったかも知れない。

あいつらは「俺が知った」という事を知っている。
それを見ない振りをして放置するか。関わらないで放置するか。それとも・・・
その先は考えたくなかった。意識不明の小夜子を抱えたまま、あんな奴らと対峙するのは御免蒙りたい。

融は考えた。
何とか樹を彼等から離して置く方法は無いものか・・・。
そう思って苦笑する。もう自分の関与を離れた女なのだから・・・。
でも、あれがもしも樹に・・・。そう考えると融は不安になった。
俺がどうこうできる事では無いのだが・・・。
恋人でもないのだから。


「神様の采配」
樹はそう言った。
それが吉と出るか、凶と出るか・・・。
神様はどう采配しようとしているのか。
融には分かる筈も無かった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み