第10話  ストック

文字数 2,985文字

融は病室に入って、持ってきた花を花瓶に差し替えた。

ピンク色のストックを2本。
香りに誘われ小夜子がこちらに戻ってくるように。

前に持ってきた黄色の薔薇が頭を垂れ始めた。それを新聞紙に包んで捨てた。

病室前で顔見知りの若い看護士に会った。
「こんにちは。赤津さん。今日は暑いですね。」
「お世話になっています。村田さん。暑いですね。」
花を持ったままそこでしばらく立ち話をする。
小夜子の様子。変化なしという報告。

週に1、2度、小夜子の様子を見に来る。そんな日々がもう6年も過ぎた。小夜子は何度か転院を繰り返してここにいる。

ロッカーの引き出しを開けて、CDを選び、ラジカセのスイッチを入れる。静かにピアノの音が流れた。
リストの「ラ・カンパネッラ」フジコ・ヘミング。
続いて「亡き女王のためのバヴィーヌ」。
曲が流れる間、融は小夜子に話し掛ける。手を取って耳元で話し掛ける。
融が独りでぼそぼそと話をしていても看護士は驚かない。
意識のない従妹に話し掛ける愛情ある身内位にしか思っていない。
それにもう慣れただろう。

静かに曲が流れる部屋で夜刀を探す。
そして小夜子に話しかける振りをしながら夜刀に話し掛ける。
「夜刀。小夜子の様子はどうだ。」
しばらくすると小夜子の足元辺りに薄い気が漂い、それが人形(ひとがた)を作り始める。そこだけ大気の密度が違う。
人形(ひとがた)は答えない。ふと気圧が戻る。

融は後ろを振り返る。
数秒後にドアが開いて一人の看護士が入って来た。
「こんにちは。赤津さん。」
看護士がバイタルを確認しに来た。小夜子のベッドに近寄りながら、ちらりと足元の方に視線を送る。世間話をしながら血圧と体温を手早く計測してボードに記入する。
「栄養補給の方は午前中に済みました」
「有難う御座います」
融は頭を下げる。
小夜子は随分前から胃瘻をしている。

「血圧も体温も正常。血中の酸素濃度も大丈夫。・・・若いせいかしら。こんなに長く意識が戻らないのに・・・床摺れの処置だけをしてきますね。」
看護士は小夜子の細い腰に手をやった。融も立ち上がって手伝う。

「いろいろと有り難うございます。お陰様で、なんとか容体が安定していて。有難いです。」
融は頭を下げた。
「ここ数日、顔色が良くなかったけど・・・今日は大丈夫ね。赤津さんが見えるからかしら?」
立派な体格をした看護士はそう言うと、ひとしきり世間話をして出て行った。彼女はドアを閉める前に、またベッドの足元にちらりと視線を送った。
そして融の顔は見ないで「失礼しました。」と言って出て行った。

「・・・・あの看護士は俺のことを知っている。」
影の密度が高まる。
微かな言葉は融の脳に直接届く。
「見えているわけではないだろうが、何かが居るみたいだという気配を感じている。」
融はくすくすと笑う。
「気持ちの悪い患者だと思うだろうな。・・・・夜刀。暫く珠衣の山にでも籠って来たらどうだ?ずっとここに居ないで。伊刀と遊んで来い」
「いや、俺が珠衣に戻るなら代わりに伊刀が来る。・・・そうだな。今の所、小夜子の様子も落ち着いているから。しかし・・」
夜刀は言い淀んだ。

「融。一体どこを彷徨っているのだろうか?小夜子の識は。」
「怜を探しているのに決まっているだろう。」
融は答えた。影はほうっとため息をついた。
「もう、この世にもあの世にも存在しないただの塵と化したかも知れぬ奴を・・・。いくら何でも長すぎだろ。・・。それとも・・融。小夜子はこちらに帰ることが出来ないのか?」
「どうだろうか。・・・どこに居るかなんて俺には分からない。また薄羽様に来ていただこうとは思っているが・・」

融は小夜子の顔を覗き込んだ。
白い顔はあの時のままだ。
綺麗に弧を描いた眉。整った鼻筋、薄い唇。長い睫が影を落とす。日本人形みたいな顔がますますそれに似て来た。

小夜子の髪に手をやる。
「伸びて来たな。また切ってもらうか。」
そう呟く。

これで瞼を開けると全く表情が変わる。
くっきりとしたアーモンド型の目。
力強い視線。生き生きとした表情。
漆黒の瞳。時に、それが紫掛かって見える事もある。深い青に見える事も。
きらきらと輝く黒曜石の様な。

時に明るく美しく生気に満ちて。
時に深く暗く恐ろしく。底なしの沼の水面(みなも)の様な。



亡くなった母は小夜子の霊力を恐れていた。
個人が、それもこんな小さな女の子が大それた力をどう扱うのかと。身の丈に過ぎる力は自らを滅ぼすと危惧していた。
破滅を齎すと。
確かに母の恐れていた通りの事になった。

あの夏の終わりの台風の夜。
その日、融は一度に母と怜と小夜子を失った。

戻って来たのは小夜子だけだった。だが小夜子の識は戻らない。
母は亡くなり、怜は消えた。
その年の春に祖父を亡くしたばかりだった。
父は物心付く前に去っていた。

遠千根の池と淵
飛燕の滝。
淵の上にある神社の主は龍神の娘だという伝説がある。

もしかしたら次に目を覚ました小夜子は霊力など何も持たない普通の女性となっているかも知れない。それならどんなに幸せだろう。
誰か、小夜子を大切にしてくれる男を見付けて・・・・そう思うと自分以上に小夜子を大切にする男など見付からないのでは、とも思う。

だがしかし、自分が小夜子の伴侶になる事など、融には考えられなかった。
小夜子は唯一の家族で在り、肉親であり、幼い頃から一緒に育った妹だった。今更この従妹に恋愛感情など抱けるはずも無い。小夜子に深い愛情はある。だが、それは肉親のそれだ。


恋愛には相手を知る愉しさが必要だ。
小夜子の事は自分の事の様に知っている。

自分が知らないのは、この霊力が及ぼされる場所、恐ろしい未知の領域。
すうっと空気が冷たくなる。一瞬、色彩は消えて全てが青に染まる。風景は錆びた青の濃淡で現れる。そこだけ。その空間だけ。まるで何かのスポットに落ち込んだ様に。

小夜子がそれをどう見ているのかは分からない。だがそれは融にとってただ恐ろしいだけで、出来る事なら金輪際そんなモノには関わりたくないと思っている。
そういう相手との結婚はどう考えても無理がある。

小夜子がもしもその霊力をもって目覚めるなら、それは小夜子の幸せには全く不幸な柵(しがらみ)と言わざるを得ない。誰がそんな恐ろしい世界を共有したいと思うだろう。そんな奴は一人もいない。
・・・いや、いたな。たった一人。小夜子の異父兄である怜が。

だからこいつはいつまでも怜を探しているのだろうか。それとも小夜子の識はもう怜を見付けてそこで一緒にいるのだろうか。この世では無い場所で。
だから帰って来ないのだろうか。



何時までも待たされる身内の身にもなって欲しい。いい加減にしろよと。
いつまで心配を掛けるのかと。
「もう諦めて帰って来いよ。いい加減。もう6年だぜ。お前が帰って来ないと俺は落ち着いて結婚も出来やしない。」
そう言って融は小夜子の額に手を置く。

「・・へえ。融。誰かと祝儀を挙げるのか?」
影が囁く。
「まあ、その内な。いい加減自分の幸せを見付けないと」
融は答える。



「ふふふ。昔連れて来た、あの『こけし』みたいな娘か?」
「・・・こけし」
「それとも先頃連れて来た、あのグラマーな女か?どっちかと言われれば、こっちの方が俺の好みだ。・・・伊刀は随分あの『こけし』を気に入っていたぞ。出来るなら俺が嫁に貰いたい位だと言っていた」
「・・・お前達、言いたい放題だな」
融は呆れてそう言った。
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