第6話   空の紅

文字数 2,055文字

由瑞は彼女を家まで送っていた時の事を思い出した。
8月の書道展。

酔っ払って正体を失くした彼女をタクシーに乗せて家まで送って行った。
やたら、がぶがぶと飲んでいた。大丈夫かなとは思ったが・・・。
まさか限度を超えて飲むなんて・・・。
由瑞は呆れた。

タクシーに乗り込んで自分の住所を告げるとそのまま「こてっ」と眠ってしまった。
車が揺れる都度、ふらふらと頭が揺れる。
由瑞は手を伸ばして樹の頭を自分の肩に凭れ掛けさせた。
樹は口を少し開けてすうすうと眠っている。その顔を見ておかしくなった。
「何て無防備な・・」
そう思った。

家が近くなって彼女を揺り起こして、殆ど抱き抱えるようにして部屋まで向かった。
廊下でこんな姿を他の住人に見られたら不味いと思った。
部屋の前で「鍵を出して。早く」と言ったが反応がない。
「ちょっとバックを見るよ」そう言ってバックを漁って鍵を取り出すと、ドアを開けてそこに樹を座らせた。
慌ててドアを閉めた。
「ふうっ」と一息つく。
何でこんな面倒な事に・・・と思う。

樹はそのままくにゃりと横になる。パンツ姿で良かったと思う。
「宇田先生。・・宇田さん。ちょっと起きて。大丈夫?」
声を掛けたが起き上がる気配がない。
どうしようかと迷ったが、靴を脱がして、そのまま「よいしょ」と抱き抱えてベッドに寝かせた。衣服を直して上掛けを掛ける。

こんな状態で、送って来た男がもしも悪い男だったらどうするのだと思うと、樹に対して腹が立った。有り得ない無防備さだ。思ったよりも馬鹿なんじゃないのか?この女は。


樹が何かをむにゃむにゃと言っているなと思ったら、足を使って器用に靴下を脱いで蹴飛ばした。そして気持ち良さそうに布団に包まる。
由瑞は唖然とその姿を見ていたが、靴下を拾ってきちんと揃えて置いた。
つい笑ってしまった。

少し開いた唇がやけに色っぽくて困った。それに引き付けられるように由瑞は樹の顔に自分の顔を寄せてみた。酒の匂いがする。その後ろにほんのりと樹の匂いがする。
この香りは好きだ。
首筋に顔を近付ける。そそられる感じがする。
唇に触れてみたい。
指先でそっと彼女の唇に触れてみる。
自分が悪い男になりそうな気配がする。

これ以上この部屋にいたら不味いなと思いながら、部屋の中を見渡す。
わちゃわちゃと色々な物が床に置いてある。整理整頓は苦手らしい。
それでも蘇芳の部屋よりはマシだと思う。

本棚に写真があった。
由瑞はそれを眺める。
どこかの雪山だ。晴れ渡った青空の下、白銀に輝く山波をバックに青年と樹が笑って映っている。二人ともボードウェァを来てゴーグルを頭の上に上げている。青年は随分陽に焼けていた。樹も日に焼けた顔で楽しそうに笑っていた。

 学校で見掛ける彼女とはちょっと違っていた。もっと自由で明るい感じ。
写真はいくつかあった。それをひとつひとつ眺める。
樹が何かを呟く。

ぱたりとベッドから樹の左手が落ちた。重そうな時計をしている。

それはずっと前から気が付いていた。
華奢な手首に似合わない男物の時計。流石にベルトは皮にしてあるが。
写真の彼氏の物なのだろうかと思った。

由瑞は樹の手をベッドに戻すと時計を外した。
その手首の内側に一本の傷が付いているのに気が付いた。
一瞬それに見入った。
その傷にそっと指で触れてみた。傷は薄くなっている。だが消える事も無いらしい。

時計を元通りに付けると、メモを書き、それをテーブルの上に置く。
写真の男を再度眺める。
立ち上がるとベッドの端に寄って眠る樹を見下ろした。
ふと踵を返して部屋を出ると、鍵を掛けてアパートを後にした。



由瑞は立ち上がって窓の外を眺めた。
立ち並ぶビル。家。道路の上の幾つもの車。
整然と並ぶ街路樹をずっと西に辿ると山波が見えた。南側にも遠く山波が見える。
その間には大きな空が広がる。夜に向かう青。少し冷たい青。

西の空は夕焼けのバラ色に輝いていた。
オレンジ色の薔薇。・・いや、朱色と言うのか。紅に黄色を混ぜた様な。

その色の薔薇が家の庭に咲いていた。とても綺麗だと思った。
ふっくらと膨らんだ花咲く前の蕾をぎゅっと握ってみた。
その美しさを自分の手で実感したいと思ったのだ。
美しさを皮膚で感じたかったのだ。視覚と脳だけでなく、掌の肉で。

柔らかくてビロードみたいな蕾は傷だらけとなって手から零れ落ちた。
可愛そうな事をしてしまったと思った。

だが、この空の紅は自分の手では届きようもない。
届くはずも無い。

夕焼は単なる電磁波だ。可視光線と言う名前の。
だが、何と美しい光の波だろうか。
西の空を複雑に染め上げる無数の光子。
街には所々に灯りが灯り始める。ネオンも輝く。
いつの間にか陽が落ちるのが早くなったと感じた。

自分のルーツが何処に有るのか分からないが、この空に混ざってしまえばそんな事はもうどうでも良くなるのだろう。

 由瑞は全てのものから解放されて、この大空を風の様に悠々と過ぎ去る様を想像した。
心から自由で伸びやかで平和で。自分の枷はもう無い。自由に空を駆け巡る。おおらかで幸せで、けれどほんの少し寂しい、そんな気分がした。
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