第26話  珠衣Ⅰ

文字数 2,485文字

12月の始め、融と樹は珠衣に出掛けた。
疾うに紅葉は終わっていた。

融の家は山波が遠くまで連なる山脈地帯にある。
木々はすっかり葉を落として辺りは寒々しい冬景色だ。それでも樹は久しぶりに見る里山の景色に心が洗われる感じがした。

「それで史有君に会うことにしたの?」
樹は聞いた。
「そう。」
「先日、佐伯さんと会ってね。会ってみて違うと分かれば彼も落ち着くだろうという話になって」
「ふうん。いつ会うの?」
「いや、まだ決めていない。ぎりぎりだけれど年内にしようかなとも思っている。こんな事来年まで持ち越したくないしね。君が必死で止めてくれたのに、結局こうなってしまって済まないと思うよ」
「融君が自分で判断するんだから全然構わないよ。私、行かなくてもいい?」
「勿論。いいよ。来なくて。だって嫌だろう。史有君に会うの」
「嫌だ。だけど・・・融君一人で大丈夫?」
融は運転をしながら噴き出した。
「ねえ・・・君の中で俺はどれだけ弱っちいの?そんな弱い奴じゃないから大丈夫。それにほら、佐伯さんは常識人だし。史有君が暴走したら彼が止めるよ」
「それもそうだね。後で結果を教えてね」
「分かった」
「どこで会うの?」
「ああ。どっか適当な場所で」
融は答えた。

 山間の集落を通り過ぎる。
山間部に入ると積雪が見える。
「ねえ。もう雪が降ったのね?すごいね。」
樹が道路端を指差して言った。
「たまに11月中にも降るよ」
融が答える。
「これで冬本番になったら、この辺りは凄いだろうな。陸の孤島じゃないの?」
「まあね。冬は神社も休業するんだ」
「休業?」
「だって、参道、通行止めだから。冬は神様も冬眠」
「融君の家は?」
「俺んちは一応下の集落にあるから大丈夫」
「夏は涼しくていいけれど冬は大変だね」
「ああ・・もう、じいちゃんも母親もいないから。時々帰るだけで・・でも帰ると色々な思い出が蘇って・・」
融はそう言うと口を噤んだ。

続きは、切ない。だろうか。それとも辛いだろうか。寂しいとか・・・遣り切れないとか
樹は思った。

たった一人で誰もいない大きな家に帰る。
思い出の詰まった家に帰る。
でもそこには誰も居ない。

その気持ちを考えると融が可哀想だった。
そんな寂しい思いを彼はずっとして来たのだ。6年間も。
樹は陸を失った数年を思い浮かべた。
あの時は何をしても虚ろで寂しかった。思い出すだけで辛くなる。
融にはそんな思いはさせたくないと思った。

融と一緒に居たいと思った。
彼を想う気持ちが心の中でずっと大きく育っているのを樹は感じた。こんな気持ちは本当に久し振りだった。遠すぎて忘れ掛けたいた。陸を失ってからずっと遠退いていた誰かを愛おしく思う気持ちが蘇って来たと思った。
自分はきっと融を愛しているのだ。樹はそう実感した。
ようやく誰かを愛する事が出来るようになったのだ。

樹は融の腕に手を置いた。融はその手を握り返す。
樹の左手には新しい時計があった。
時々、それを確かめる様に右手で触れてみる。

 車は小さな村に辿り着く。山の斜面にぽつぽつと家が見える。
その一番奥の家が融の実家である。融は石造りの門を通り抜け広い庭先に車を停めた。
二人は車を降りてどっしりと構える平屋の家を眺めた。
「驚いた。すごく立派な家だねえ。勿体ないな。ここに住まないの」
「そうなんだけれど・・・不便過ぎて。それにこの辺りじゃ仕事も無いし・・・俺の仕事は在宅じゃ無理だしね」
融は車のトランクを開けながら言った。


 玄関の鍵を開けて、中に入ると暗くて冷たい空間が融を包んだ。
慣れ親しんだ家の匂い。黴臭い淀んだ空気の奥に懐かしい匂いがあった。
雨戸を締め切った真っ暗な家。

「ただいま」
誰も居ない家の奥に向かって小さく声を掛けると、玄関から縁側に出て雨戸を開ける。

融の脳裏には家で過ごした日々が蘇る。

小さな子供だった小夜子と自分。
優しかった母と祖父。
祖父は強くて大きくて様々な出来事から家族を守ってくれた。
特別な事は何も無いけれど、あれは確かに幸せな日々だったと思う。

春の野草摘み。セリやヨモギ。小夜子の手を引いて籠にたくさん摘んで来ると母はそれを使ってヨモギ餅を作ってくれた。香りの強いセリや蕗の薹の天ぷら。山ウドやタラの芽。
四人で山菜取りに出掛けた事もあったなあと思う。
静かな山の中で鴬が鳴いていた。

夏の川遊び。小夜子と祖父と自分。清流には離れた地区から遊びに来る人達もいた。
祖父と魚釣りをした。それを塩焼きにして河原で食べた。
夜は庭に溢れる蛍の淡い軌跡を追い掛けた。
蝉しぐれの夏。

秋の紅葉は格別だった。
まるで金襴緞子の織物をふわり山に被せた様な美しさ。
小夜子と茸を取ったり山栗を拾ったり。赤とんぼを追い掛けたり。

冬はこたつに入って蜜柑を食べた。
二人でこたつで寝てしまい、起きたら喉がからからに乾いていた。小夜子の宿題を見てやったり、二人でテレビを観たり・・・母が揚げ餅を作ってくれた。あの醤油の香ばしい味が蘇る。
古い家。遠い記憶。
その風景の中には必ず小夜子がいた。


雨戸を一枚開ける度、庭先から明るい日差しが家の中に差し込んだ。
舞い上がる埃が光線の中で光る。


「お邪魔しまーす。今日がいい天気で良かったね。さて、仕事仕事」
樹はすっかり身支度を整えている。
エプロンにマスクに三角巾、そして軍手。手には掃除機を持っている。
融はブレーカーを上げる。

「今回の予定は家の掃除。それに神社の掃除と点検。そして珠衣の温泉に行く事。楽しみだなあ。どんなご馳走が出るのかしら」
掃除機の音の向こうから樹の声が聞こえた。
融は樹を見ると言った。
「こんな山奥でそんな御馳走なんてあると思う?牡丹鍋とか鹿鍋とか・・まあ後は山菜の天ぷらと川魚だな」
「食べた事無いから。牡丹鍋とか鹿鍋とか。楽しみ。温泉も楽しみ。」
融は笑う。
「何もない所で楽しんでくれて俺も嬉しいよ。この後、神社に案内するから。・・神社には犬がいると思う。『伊刀』と言う名前の犬なんだけれども・・・利口な犬なんだ。君を伊刀に紹介するよ。伊刀も喜ぶと思う」
樹は笑って「うん」と答えた。

そう。今は樹が傍に居てくれる。大丈夫。俺は乗り越えられる。
融はそう思った。
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